国籍は天にある
「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を
見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話
しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、
彼らが何を企てても、防ぐことができない。我々は降って
行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞
き分けられぬようにしてしまおう。』」
(新共同訳 創世記11:5〜7)
私たちの教会では、毎月1回、礼拝のあと午後から聖書の
学びをしています。
参加者は、アメリカ人にブラジル日系人とイラン人、そして
日本人です。
皆さん日本語が話せる(判る)ので、日本語での学びとなり
ますが、使用する聖書は母国語に翻訳されたものです。
それぞれの国の言葉で聖書を読むとき、言葉の意味が理解
できなくても、そこには確かに主のいのちが流れていて、魂
の琴線にふれここち良く感じられるから不思議です。
そう、私たちの共通言語は「キリスト語(?)」なのです。
兄弟姉妹といっても、同じ親から生まれた訳ではありません
が、私たちの新しいいのちには、イエス・キリストの贖いとい
う尊い血が流れています。
だからキリスト者の交わりには、この世の価値とは比べられ
ない暖かさが伝わってくるのでしょう。
しかし、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
(伝道者3:11)としか言いようがない。
人間の傲慢が最大になった時に主は、言葉を混乱させて同じ
原語で意思の疎通を図ることができないようにされました。
それが今、互いに違う言葉で「主の恵み」を語り合い、バベル
の塔ではなく、
「主の栄光をなによりも高く築き上げる」ことを共同作業として
いるとは・・・。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・・・」
(ピリピ3:20)