義人は信仰によって生きる(その3)

やがて、光は突然ひろがり、その暗い心のすみずみまで
照らした。


のちに彼はこう言っている。


「私は、神の義とは、信仰によって賜物として神から受け
るものであると悟った。私には、これこそ恵み深い神が
信ずる者を義なりと宣言される手段であるということが
わかったのである」。


「わたしは、自分自身が新生した者であると感じた。聖書
全体が、これまでと全く異なったものように、私には思わ
れた。それまで神の義を憎んでいたのに、今や、この上な
くそれを愛するようになった」。


こうして、ルターは新生した。


信仰による義認の説教によって、全ヨーロッパを燃え立た
せたルターが新生したのである。


・・・・・・転載終了




こうして、ルターが罪の悶えるような呪縛から解き放たれ、
自由な大空の中で光をみつけた。


その功績(?)によって、現代にも光が届けられた。


そして、旧約時代のユダヤ人には隠されていた「奥義」を
私たちは苦もなく得ることができたのです。(ここに貧しい
クリスチャンが生まれる問題があるのですが・・・)


さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある
人々に対して言われていることを知っています。それは、す
べての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため
です。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神
の前に義と認められないからです。律法によっては、かえっ
て罪の意識が生じるのです。


しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって
あかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス
キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべて
の信じる人に与えられ、何の差別もありません。


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けること
ができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスを、その
血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお
示しなりました。それは、ご自身の義をあらわすためです。


というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見
のがして来られたからです。


それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして
ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めにな
ためなのです。」(ローマ3:19〜26)



ああ、この主の前に、ただただ感謝することしかできない。


これが、私たちに与えられている礼拝なのです。