まだ見ぬふるさと


私にとっては、生きることはキリスト、


死ぬこともまた益です。」
(ピリピ1:21)





賛美歌320番「主よみもとに近づかん」




心が騒ぐとき、この世の不協和音に悩まされるとき、


この賛美歌は、ただちに私たちが帰る故郷へ運んで
くれる主のギフトなのかもしれません。


ああ、まだ見ぬ故郷に思いを馳せて・・・・・。




私の母は晩年、リュウマチの痛みに身体の自由を奪
われ、口癖のように「早く天の父なる神様の元に帰り
たい」とこぼしていました。


母にとっては「死ぬことが益」だったのです。


しかし、主の計画は「もう少し生きてキリストを証しし
なさい」だったようです。


母は本当に主を愛し、また多くの人に主の愛を表して
いました。そして、肉体を離れる数時間前まで、存在
意義を生をもって証ししていたようです。


私たちも今、こうして生かされているのなら、私たち
一人ひとりを主のご計画の中においていてくださるこ
とを覚え、


「私にとっては、生きることはキリスト」と、告白したい
ものです。

聖書を食べる!?


しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、
神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』

(ルカ11:28)




聖書はキリスト者にとって、生きていくための食物であり、
進む道を照らしてくれる光です。


ある人にとっては、ただのぶ厚い退屈な書物でしかないか
もしれません。


また、ある人には、たまに喜びや気付を与えてくれる参考書
なのかもしれません。


アンドリュー・マーレーは「内なる生活(The Inner Life)」の
中で、聖書が身になる食物となるためには、受け取る私たち
の姿勢が大切であることを述べています。


・・・・・・以下引用


あなたの目的が単に聖書をよく知りたいということだけなら、
たといあなたがその目的を達成しても失望することになるで
しょう。


もしあなたが、聖書の完璧な知識は不可避的に祝福となると
考えているなら、誤っています。


それは、ある人々には値打ちのない、無益なものです。それは、
彼らを聖くもしないし、幸福にもしないのです。


ある人には、それは重荷になります。


それは彼らを元気づけたり励ましたりする代わりに憂うつにする
のです。


では、聖書を学ぶ者の目標や目的、あるいは真の姿勢はどう
あるべきでしょうか。


神のみことばは食物であり、天からのパンです。


聖書研究のための第一の必要は、義に対する大きな渇き、すな
わち、すべてのことにおいて神のみこころを行なおうとする願望
なのです。


聖書は光です。それを楽しむための第一の条件は、神の道を歩
もうとする心からの熱望
なのです。これが、この章の冒頭に掲げ
た聖句が教えていることではないでしょうか。


「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」


私たちがそれを守るのでなければ、神のことばを聞いたり知ったり
することには何の祝福もないのです。


神のことばは、それを守り、従い、行なうことがなければ無に等し
いのです。・・・・・・・・・・・・・・・・


神は、みことばを実行しようと明確に自分の意志を決めた者に対し
てのみ、ご自身のみことばのほんとうの意味と祝福を知らせてくだ
さることでしょう。


・・・・・引用終了


主よ。


あなたの道を私に教えてください。


私はあなたの真理のうちを歩みます。


私の心を一つにしてください。


御名を畏れるように。」
詩篇86篇11節)

国籍は天にある

主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を
見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話
しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、
彼らが何を企てても、防ぐことができない。我々は降って
行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞
き分けられぬようにしてしまおう。』

(新共同訳 創世記11:5〜7)




私たちの教会では、毎月1回、礼拝のあと午後から聖書の
学びをしています。


参加者は、アメリカ人にブラジル日系人とイラン人、そして
日本人です。


皆さん日本語が話せる(判る)ので、日本語での学びとなり
ますが、使用する聖書は母国語に翻訳されたものです。


それぞれの国の言葉で聖書を読むとき、言葉の意味が理解
できなくても、そこには確かに主のいのちが流れていて、魂
の琴線にふれここち良く感じられるから不思議です。


そう、私たちの共通言語は「キリスト語(?)」なのです。


兄弟姉妹といっても、同じ親から生まれた訳ではありません
が、私たちの新しいいのちには、イエス・キリストの贖いとい
尊い血が流れています。


だからキリスト者の交わりには、この世の価値とは比べられ
ない暖かさが伝わってくるのでしょう。


しかし、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
(伝道者3:11)としか言いようがない。


人間の傲慢が最大になった時に主は、言葉を混乱させて同じ
原語で意思の疎通を図ることができないようにされました。


それが今、互いに違う言葉で「主の恵み」を語り合い、バベル
の塔ではなく、


主の栄光をなによりも高く築き上げる」ことを共同作業として
いるとは・・・。



けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・・・
(ピリピ3:20)

義人は信仰によって生きる(その3)

やがて、光は突然ひろがり、その暗い心のすみずみまで
照らした。


のちに彼はこう言っている。


「私は、神の義とは、信仰によって賜物として神から受け
るものであると悟った。私には、これこそ恵み深い神が
信ずる者を義なりと宣言される手段であるということが
わかったのである」。


「わたしは、自分自身が新生した者であると感じた。聖書
全体が、これまでと全く異なったものように、私には思わ
れた。それまで神の義を憎んでいたのに、今や、この上な
くそれを愛するようになった」。


こうして、ルターは新生した。


信仰による義認の説教によって、全ヨーロッパを燃え立た
せたルターが新生したのである。


・・・・・・転載終了




こうして、ルターが罪の悶えるような呪縛から解き放たれ、
自由な大空の中で光をみつけた。


その功績(?)によって、現代にも光が届けられた。


そして、旧約時代のユダヤ人には隠されていた「奥義」を
私たちは苦もなく得ることができたのです。(ここに貧しい
クリスチャンが生まれる問題があるのですが・・・)


さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある
人々に対して言われていることを知っています。それは、す
べての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため
です。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神
の前に義と認められないからです。律法によっては、かえっ
て罪の意識が生じるのです。


しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって
あかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス
キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべて
の信じる人に与えられ、何の差別もありません。


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けること
ができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスを、その
血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお
示しなりました。それは、ご自身の義をあらわすためです。


というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見
のがして来られたからです。


それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして
ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めにな
ためなのです。」(ローマ3:19〜26)



ああ、この主の前に、ただただ感謝することしかできない。


これが、私たちに与えられている礼拝なのです。

義人は信仰によって生きる(その2)

ルターは、市内のありとあらゆる聖堂を訪れ、自分の罪
のゆるしを求めた。


有名なサンクタ・サンクトールムにも行ったが、そこに
は、キリストがピラトの法廷で登った階段と言われてい
る28段の階段があった。


教皇レオ4世は、巡礼たちに、定められた祈りを唱えなが
ら、ひざでその階段を登るようにすれば、1段につき9年
間の罪のゆるしを与えようと約束していた。


ルターはそれを聞き知っていた。


ルターは、お祈りを唱えながら、その古びた階段をひざで
1段また1段と登り始めた。


その祈りの中で、頭に浮かんでくるあらゆる罪を告白した
のである。


突然、彼は、かつて塔の中の一室で読んだ聖書の箇所を
思いだした。


「義人は信仰によって生きる」。


この真理が彼の内なる人を揺り動かした。一瞬ためらった
が、急いで立ち上がり、階段を降りてしまった。


光はさし始めていた。しかし、霊的な暗黒がまだ彼のたまし
いをとらえていた。


ドイツに帰ると、ルターはさらに聖書を探求した。


詩篇、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙を読みつつ、
何時間も黙想した。


ヴィッテンベルク大学は、厳粛な儀式のうちに神学博士の
学位を彼に与えた。その結果、大学で神学の講義をすること
になった。


ところが、彼は、のちに書いているように、「神学博士になった
ときにも、私はまだ光をを知らなかった」のであった。


詩篇を講じ、ローマ人への手紙に進んだ。ここで、また改め
て彼は、信仰による義認の教理と取り組んだのである。


彼は、「神の義」ということばをひどくきらった。というのも、
神がこの属性を用いて罪びとを罰するのだと、彼は信じてい
たからである。


しかし、それでもなお、彼は、「義人は信仰によって生きる」と
いう聖句に帰ってきたのである。


≪次に続きます≫

義人は信仰によって生きる

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめ
ギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる
神の力です。


なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義
は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰に
よって生きる。』と書いてあるとおりです。(ローマ1:16、17)







「41人の回心物語」(いのちのことば社刊)より転載・・・・・・・・・・
迷える修道士への光:マルティン・ルター


「私の罪、私の罪」。若い修道士はそう叫びながら、修道院長の
前で床にひれ伏した。


「私に神の恵みをください、あなたの恵みをもください」と、彼は
嘆願したのである。


「貧しさ、純潔、そして服従を、あなたの心からの友としなければ
なりませんぞ」と、修道院長は言い渡すのであった。


ドイツの農夫の子である若いマルティン・ルターは厳粛な誓いを
した。それから、毛織の下着、黒いガウン、短い頭巾、そして黒
い帯を締めて、彼は行いによって神のあわれみを求め始めた。


こうして、彼はどんなに真剣にそれを実行したことであろう。とき
には幾日も断食した。夜は毛布も使わず、苦行をつづけたが、
そのために、もう少しでこごえ死ぬばかりになったこともあった。


彼は床にひれ伏し、うめくように祈ったものである。


後日、彼はこんなふうに書いている。


「もし修道士が、修道院での生活によって、天国へ行けるとすれ
ば、私は天国に到達していたことだろう。・・・もし私が、もうしばら
く黙想し、祈り、読むなどの苦行をつづけていたなら、死んでしま
っていただろう」。


ルターの属していたアウグスティヌス会ドイツ菅区会長のヨハン・
シュタウビッツ博士は、ルターを助けようとして、この若い修道士
に語った。


「キリストが罪のゆるしです。しかし、キリストがあなたを助けて
くださるためには、ほんとうの罪のゆるしがしるされている罪の
カタログを持っていなければなりません」。


それで、ルターは自分の罪を数え上げようとした。しかし、これは
安らぎを与えてはくれなかった。彼は赤い皮のラテン語の聖書を
熱心に読みふけり、自分の重荷になっているものが取り去られる
道を捜し求めたのである。


1508年のある日、ルターは塔の中の小さな部屋で、ローマ人へ
の手紙を読んでいた。1章の17節まで読んできて、ここで最初の
光がさしこんできた。「義人は信仰によって生きる」。彼はこのこと
ばを何度も何度も頭の中でくり返した。


信仰だけで大丈夫なのだろうか。そういぶかったりした。


やがて、もう一人の修道士とともに選ばれて、アウグスティヌス
修道士の間における改善を陳情するために、彼がローマに派遣
されることになったと、修道院長から告げられた。


その知らせを聞くや、ルターの心は躍った。この聖なる都でなら、
これまでずっと心から願い求めていた霊的な平和を見つけ出すこ
とが、きっとできるにちがいない!


こうして、初めてローマの市街を見たとき、彼は、「おお、なんじ、
聖なるローマよ!」と叫びながら、ひれ伏した。


≪次に続きます≫

春まで待とう!!


光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。
喜びは、心の直ぐな人のために
。」(詩篇97:11)




昨年の11月の初め頃に、いただいた絹さやえんどうの種
を庭の隅に蒔きました。


作り方がわからずに教えを請うと、種を下さった方はひと
言「適当に蒔いとけば良い」とのこと。


蒔いていたことも忘れていた3月初めに、雑草に混じって、
可愛い芽を出していました。


あの寒かった冬を越して、約束を果たすかのように、確か
に芽を出して育っていたのです。


私たちにも信仰の冬はあります。それでも主は約束をたが
える方であるはずがありません。


すでに、主の手によってすべての祝福は種のように地中に
蒔かれているのです。


やがて芽を出し、わたしたちに収穫の喜びを味あわせてくだ
さることでしょう。


さあ、待ち望もう主を!