キリストを着る

寒気が列島を覆っているようで、朝晩の冷え込みも増してきました。芯から冷えた
身体を温めるには、日本人にはやはり温泉が一番。


というわけでまた、隣町の温泉に行ってきました。やはり冬の温泉は心身ともに
温めてくれます。







露天風呂に浸かっていると、小学生のお孫さんを連れたおじいさんが入って来ました。
男の子はおじいさんに学校であったことを話していましたが、その内容がおもしろい
のでついつい私も笑ってしまい、いつの間にか聞き役になっていました。


また、ある時は知らない者同士の三人で世間話に花を咲かせていました。温泉には、どう
やら人の心の厚い衣を脱がす効能もあるようです。まさに「裸の付き合い」です。


それもつかの間。温泉から出れば服を着て、笑顔もしまい見栄や肩書きなどで完全武装をし、
世の中の荒波へとまぎれていくようになります。


神がアダムを造られたときは裸でした。まさしく本音で裸の付き合い(霊での交わり)を
していました。しかし、自分で生きる道を選んだアダムは、裸(罪)を隠すためにイチジクの
葉で腰を覆ってしまうのです。こうして、私たちも神の前で裸でいられなくなりイチジクの葉
という取り繕いをまとうのです。


「隣人を愛せ」と戒められていますが、イチジクの葉をつけたままでは本当に愛することは
できません。もういちど裸になって、まず「キリストを着る」必要があります。


社会の中での人間関係や夫婦の関係、また親子の関係でも「主の愛」を表すことはできな
いのが人なのです。まずそのことを理解し、私たちを通して主に働いていただくことが大切な
ことです。


エス・キリスト抜きの愛はただの取り繕いに過ぎません。


主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13章14節)