引きこもりは逃避ではなく、一時的な回避だ。

私は仕事がら、引きこもりと言う人たちと接する機会があります。


病気で外に出る事ができない人や、学校でいじめにあい、それから不登校となりそのまま部屋に引きこもるようになった人。


社会に出たが、職場の人間関係がうまくいかずに、しまいには人と接する事ができなくなり、部屋から出る事ができなくなった人。動機や原因はさまざまですが、ほとんどの人が優しいこころの持ち主で、とてもまじめです。傍から見ると怠けて見られがちですが、出ようにもでられないで、彼らは苦しんでいるのです。


その人はもちろんのこと、親にとっても辛いことです。
経済的な負担や、その子の将来に対する不安で心が休まる事がなく、その家庭から団欒のひと時は消え、やがて両親から楽しみさえ奪い取ってしまいます。


そんなときは、家庭の恥とは考えないで第三者を間に入れることで解決することもあります。親子関係という枠内だけでは、どうしても限界があります。つまり、子供にとって自分がいままで見てきた親でしかなく、また、親からすれば、自分の庇護の下あるいは支配下潜在的に心の底に持っているようです)にある子供なのです。


三者はその親子関係に風を吹き込み、冷静に判断させる材料を持ち込む事ができるのです。(少し分かりずらいかもしれませんね・・・)


引きこもるという選択は、長い人生において一時的な危険からの回避です。
彼らの話を聴いていると、私たちより彼らのほうが「まとも」とさえ思えてしまうこともあります。なぜなら、この腐敗臭さえただよう見せ掛けだけの世の中で、平気でいられる方が普通ではない、のかもしれません。


それでも、世の中での楽しみ方もあり、生きていく理由もあります。
それは、残念ながら部屋の中では見つけることはできません。
わずらわしくても、人と人の関係から生み出されるようです。



※杉の木の逆立ち・・・?