見える世界。見えない世界。(その3)

この世がすべて・・・!?


「ひとは死んだらどうなるの?」何気ない会話の中で、時おり耳にする言葉です。
唯物主義では「何もない。無である」となるようです。



今の世の中がすべてであれば、他人のことなど構っていられません。無(ゼロ)に
向かって「希望を持って生きる」ことなど、私には考えられないことです。


「今度生まれ変わったら鳥になりたい」。空を自由に飛び回れたら、なんて素敵なこと
でしょう。








「もし生まれ変わることができたら・・・?」というアンケート調査によれば、
鳥のようにまったく別な存在か、現実的な答えとして女性は、「男に生まれたい」
が多いそうです。なんとなく解る気がします・・・。


ヒンズー教や仏教によれば、現世の行いによって次の世にまったく違う存在となって
生まれ変わるそうです。そして、何度も生まれ変わって過去世のカルマを消化していか
なければなりません。


あるヒンズー教の学者は数学的正確さを持って、ひとりの人間の正義が達成されるのに
どれほどの時間が必要か計算しました。「この世と来世で犯す誤った行為全部の帳尻を
合わせるには、懲罰として六百八十万回も生まれ変わる必要がある
」と、ほとんど不可能
と思わされるような天文学的数字です。


私には、この気絶するような時間を想像することはできません。


あるひとは「輪廻転生とは、どの時代にあっても誰にとっても、結局『より良く生きたい』
という人間が普遍的に持つ願望が生み出したもの」と言いました。







ひとは死んだらどこへ行くのでしょう・・・。


人間は肉体と魂(こころ/知・情・意)、そして霊からなります。
聖書では、神が人間の肉体を造ったときに、命(霊)を入れた、と書かれています。


この時点では、創造主(神)と霊的にもとても良い関係にありました。
しかし、人間は自分の意思で「あたかも神のように生きる」という誤った道を選んでしまった
結果、神との霊的な関係は崩れてしまいました。


そして、この世界を自分自身で生きるために、魂は必要以上に歪んで肥大化してしまい、
神をも見えなくしてしまったのです。


霊的に離れてしまった人間は、自己でやりくりするしかなくなりましたが、依然としてこの
領域(神の命の霊が収まる場所)はポッカリと空いたままです。


だから、ひとはこの空間を埋めるのに限りのない欲望を無理やり押し込み、もがいているの
です。それが「依存症の病理」となって現れるのではないでしょうか。


精巧にできたジグソーパズルを完成させるのはとても難しいことです。
同じように見える異なったピースを、いくらはめ込もうとしても収まることはありません。


同様に、この神から離れたために空いてしまった穴(空虚)を埋めるのは、神の霊しかないのです
それは言い換えれば、エスキリストを受け入れることなのです。


いずれにしても、わたしたちの目を通して写る世界は、「目には写らない世界によって目的が
与えられ、そして支えられている」のです。


この隣接する領域は、わたしたちの心(霊)の目が見開かれないと観察することはできません。
即ち、霊の世界(神)は霊によってしか理解できない、ということです。
神のようになりたかった高慢な人間の浅はかな知恵を持っては、どうあがいても残念ながら、
神を知ることはできません。


神がわたしたち人間と和解するために遣わしてくださった、イエスキリストの存在を、まず
信じることが唯一わたしたちに与えられた人生のすべての答えなのです。


この宇宙の絶対的な真理の前で人間は、ただ、素直にへりくだり、生かされている理由を噛み
しめながら歩んでいくことができれば幸いです。


夏の暑い昼下がり先祖の霊を偲び、まだ見ぬ世界を思い描いているそばで、短い命をせわしなく
生きるセミは、その先にある世界を知っているかのように、きょうも羽をすり減らし鳴いていた。