「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」 聖書(その2)
生きている言葉。死んでいる言葉。
「ありがとう」は「有難う」、と書きます。
つまり、自分にとって「ある事が難しい」「有るわけがない」と思えるようなことが
起こる。
だから、「ありがとう」という感謝のこころが生まれるのです。
この少年は障害をかかえ、苦しんだでしょう。
何かを恨んだこともあるはずです。
けれども少年は、幼いながらも「自分の存在意義」を知り、こころから感謝する術を得た
のです。「こんな自分でさえ愛されているんだ」と少年にとっては「有難い」ことを理解した
ときに、彼はこころからの「ありがとう」を口にしたのです。
そして、この生きたクオリアは周りの人びとに振動となって、「いのち」を伝えていく
のです。
「ありがとう」と言うことは簡単です。
「ありがとう」という文字や言葉に、特別な何かがあるのでもありません。
「こんな私にはあり得ないことだ」、とへりくだったときに「ありがとう」の気持ちが言葉
となって生まれてくるのです。
私たちの日常には、こころから感謝したくなるようなことはあるでしょうか・・・。
ひとを生かす言葉があれば、反対に殺す言葉もあります。
テレビから流れてくるニュースはどうでしょうか。
暗い、おぞましい事件も人びとの欲求を満たすエンターテイメントに成り下がり、すっかり
わたしたちの感覚を麻痺させてしまいました。公共の電波を乱用するバラエティー番組から
は、いのちへと続く架け橋をみつけることはできません。
垂れ流される死んだ言葉の濁流は、容易にわたしたちのこころの防波堤を打ち砕き、今では
全身が浸かっていることさえ気づかないのです。
朝起きてから夜床につくまでに、普段の何気ない会話やひととのかかわりの中で、どれだけ
生きた言葉を発しているでしょうか。
反対に、どれだけ相手を傷つけるような言葉を吐き出しているでしょうか。
すべてが自己に向いているこの社会にあって、己の分をわきまえずに利己的な態度からは
感謝のこころは生まれないようです。