主人公のいない誕生会!?クリスマス

街なかは、人びとの購買意欲を喚起するようなディスプレイで着飾っている。


ショッピングセンターは、毎度おなじみの色あせたクリスマスミュージックで気分を盛り上げてくれる。それにつられ、人びとは財布の紐をゆるめては子供に、恋人にとプレゼントを奮発し、年に一度の善良なサンタに成りすます。


そして、家庭では「メリークリスマス」の声を合図に祝杯を挙げ、ケーキやチキンを口に運び正月前の一年の締めくくりとして過ぎた時間の名残を惜しむ・・・。







そうです、これは恒例の一般的なクリスマスの風景です。


さて、「メリークリスマス(Merry Christmas)」とはどういう意味でしょうか。


「クリスマス(キリストの降誕)おめでとう」という意味です。


実は、イエス・キリストがお生まれになったのは12月25日ではありません。正確な日時は聖書には記されていません。また、聖書には、生まれた日を記念として「祝いなさい」とは書いてありません。


それでは、なぜキリストの誕生を祝うのでしょうか。


それは、私たちが知ろうが知るまいが、意識しようがしまいが、罪のために切り離されてしまった創造主(神)との関係を、取り持ってくださるためなのです。


つまり、私たち人類が自分の行いではどうすることもできない罪(不完全な部分)の贖いのために、この世に生まれ、そして自ら犠牲になって死なれたのです。


しかも、イエス・キリストは、人類史上ほかに類のない「偉大な愛の業」を成就するために来られたのに、クリスマスでは存在すら忘れられてしまっているのです。


この方は神であるのに人間よりも低くされ、威光や尊厳は一切まとわず、謙虚さと無償の愛で人びとに仕え、そして、罪もないのに全ての罪を負って死んでくださった。


それ以外には、人びとを救う方法がないのです。


それが、イエス・キリストなのです。


それが、創造主(神)の愛なのです。


だから、「信じなさい」という神の言葉になるのです。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(新約聖書マルコ10章45節)※人の子(イエス・キリスト

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(新約聖書ヨハネ3章16節)※ひとり子・御子(イエス・キリスト)※永遠のいのち(肉体は死ぬが霊は神と共に生きていく)



「クリスマス」には、イルミネーションやごちそうだけでなく、誕生日の主人公となるイエス・キリストを迎え入れて祝ってみませんか。


そして、真理を知って、様々な人生のつまずきをさけて、「真の自由」を受け取ってみてはいかがでしょうか。