神は、これほどまでしてあなたを救おうとしている!!

私は、自分の不甲斐なさを嘆く。


どれほど神は私を愛していてくださるか知っているのに、愛せない自分に気づく。


そして、努力しようとすればするほど、神の姿が遠のいていく。


「贖罪の祈りや、御名を崇め、主への栄光を求める祈り」も霞んでいくようだ・・・。








己の力で・・・。


自分が・・・。


もがいている自分から、フッと全身の力が抜け・・・、


そして、涙が溢れてきた歌に出会ってしまった。

1.金や銀の 冠を 主イエスは 取り給わず
主の誉れは 打たれし傷 御顔に流れる血ぞ
※荒削りの木は 主イエスの 王座なり
血にそむ いばらは 榮の冠

2.象牙の座に 着き給わず カルバリに死にたもう
主は十字架より 仰ぎ見る 来るべき御国をば
※(繰り返し)

3.紫の衣 剥がされ つばきされ 嘲られ
されど 罪清むる泉 その血にて開かれる
※(繰り返し)
小坂忠さんの「いばらの冠」を思い出して掲載しました。


そうか、これが十字架なんだ。


神のへりくだった姿が、臨場感をもって迫ってくるようで、直視できませんでした。


これが神のお示しになった「愛」なんだ・・・。


あふれる涙でにじんだ彼方でイエスは、「私の中で、ただ安息していなさい」と微笑まれたように感じました。

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛した私のためにご自身をお捨てになった神の子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」 (ガラテヤ人への手紙2章20節・21節)


※青文字の強調部分は、ギリシャ語の原典では「神の子(イエス)の信仰」と訳すのが正解だそうです。これはすごいことですね、私たちの罪の身体は、もうイエスとともに十字架で死に、イエスの信仰で生きていることになるのです。