あなたは教会に、何を期待しているのですか?

最近、教会とは・・・、キリスト教徒とは・・・、と考えさせられます。





私は、キリスト教は大嫌いです。(誤解を恐れずに、何度でも言います)
敬虔なクリスチャン・・・?
「うん?なにそれ・・・。」って感じです。
また、清貧を装っている見せ掛けだけの牧師も、「勘弁してください・・・」です。



これだけ読むと、「とんでもない偽クリスチャンめ!」という声が飛んできそうですが。^^;



そもそも、教会とは何をしにいくところでしょうか?
「牧師の説教を聞きに行くところに決まっているでしょ!」「一週間の世間で染まった汚れをリセットしにいくところでは・・・」「疲れた心を癒してもらいに行くのですよ」「願いを聞いてもらいに行く場所・・・?」



こんな答えに自分が該当する方は要注意です。あなたは、キリストを求めていないからです。



あなたの教会は、やたらと「献金」ばかり強調していませんか?
何が何でも「伝道、伝道・・・。」
兄弟姉妹よ、「献身して奉仕をしなさい。」
あなたは、「何人の人を救いましたか・・・?」
あなたは、「教会のために何をしてきましたか・・・?」
「牧師の言うことは絶対だ!」・・・???(アホかいな)
何でも「悪霊追放!!・・・、エイッ、ヤーッ!」(どこかの新興宗教・・・???)
「あなたは高価で尊い。だから何をしても赦されます・・・」十字架の意味を教えない教会。
「唯一の神がいるだけで、イエスでも・・・でも、いいんだよ」こんな輩まで。



あーあ。こんなキリスト教に誰がした・・・。



今、キリスト教界は玉石混交。ミソも○○も入り乱れているようです。
平信徒(?)は自分に気持ちの良い説教をしてくれる教会に群がり、牧師様は信徒に気に入られることだけを考え、世間受けする話に磨きをかける。聖書から離れて・・・。
また逆に、献金が少ないことや教会員が少ないことは全て他人のせいにして、まるでできの悪い営業社員に新規顧客獲得や売り上げを上げさせるために尻を叩く社長がいる会社になってしまった教会。(こんな教会はイエスに・・・「マタイ21:12,13」)



もう一度、聖書に戻るときです。私たちが信頼するのは聖書(神)の言葉だけです。
そして、私たちに与えられているのは、神であるイエス・キリストの名前だけなのです。(使徒4:12)



私たちが頼るのは、「イエス・キリスト」のみです。求めるのも「イエス・キリスト」のみです。牧師ではないのです。(必要ないとは言ってませんよ。聖書を良く理解しており、正しく導く牧者はもちろん必要です。)
そして、一人ひとりが教会(キリストの身体としての)であることを、再確認してください。
十字架の命が一人ひとりに充満されるとき、霊によって礼拝するのです。
それが教会です。(エペソ1:23)



キリストの命に満たされた者は、キリストのかぐわしい香りを放ち、あふれた香りと命で、また、他の人を潤すのです。(コリントⅡ・2:15)
しかめっ面をしながら・・・、自分も満たされていないのに・・・、これは「良き知らせです」って、誰が受け取るでしょうか。まず、キリストの十字架にあるかけがいのない宝の価値を探してください。
そして、十字架のもとで安息するのです。
なぜなら、私たちはもう既に、イエス・キリストの命の中に置かれているからです。



私はキリストと共に十字架につけられてしまった結果、今私は死んでいるのだから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために、ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている」(ガラテヤ2:20 原典を翻訳されているDr.Kさんのみことばざんまいより)
http://blog.goo.ne.jp/doctor-mk/e/8d86c2428c5543cd199189d0aaa1500d



すごいことですね。エス(神の子)の信仰の中で生きているのです。



また、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、全てのものを持っています」(コリントⅡ・6:10)がクリスチャンなのです。



この十字架でいただいた命を経験するときに私たちは、「よい行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ2:10)ことを知るのです。