なぜ、イエスキリストは救い主として来なければならなかったのか?(その2)


タイトルに対する答に、


結論から先に言えば・・・、


神と私たちの間には越えることのできない大きな罪という溝があり、いくら私たちが考え付く限りの善行を行おうが、この溝を埋めることができない。(ローマ3:20)


その結果は、永遠の死と決められている。


しかし、全ての人類には永遠の死が定められていたが、神は一つの方法で人類への救済を備えてくださった。


それが、御子イエス・キリストの十字架刑である。



神でありながら、私たちと同じ罪の身体をまとい(人となった)、人類の罪を一手に背負われ、十字架で死んでくださった。そして、人のまま3日後に甦り、天の父なる神と私たちの間を取り持っていてくださるのです。


・・・・・これが、イエス・キリストがこられた理由です。


では、前回の律法はどうなのでしょうか。


律法の目的は、「自分は罪人だ」(ローマ5:13)と認めさせることです。そして、「キリストに導くための養育係」(ガラテヤ3:23)なのです。


聖書が言うのは、「律法を守っていようが、全ての人間は罪人なんだよ」、だから「救われる唯一の方法として、イエス・キリストを与えてくださった」ということなのです。


そして、「イエス・キリストは確かに救い主だ」と言う事を受け入れれば良いのです。


そこでもう一度、前回の牧師の文をみてみます。

そしてきょうのところでは、実際に姦淫をするということと、心の中で姦淫をするということは、同じことであるということになるのです。  さて、そういうことを考えると、きょうの聖書の言葉はやはり「他人の妻」と訳してはまずいということになります。旧約聖書モーセの律法でさえも、他人の妻だけに留まっていない。それを他人の妻に限定してしまっては、イエスさまの真意と違ってしまいます。主イエスは、旧約が実際に姦淫と呼ばれる性関係をもつことを禁止していたのを、心の中の問題にしたのです。

 だからこそ、椎名麟三はつまづいたのであり、聖書に接した多くの人がここをどう解釈したらよいのかとまどったのです

ギリシャ語では「女」と訳すのが正解です。
マタイ5:27、28(律法)は、「守れる人は一人もいないんだ」と言うことなのです。


律法を守っている(と、勘違いをしている)と豪語するパリサイ人や律法学者など、そしてイエスを救い主として認めようとしなかった当時のユダヤ人に対しイエスは言われたのです。







つまずくのではなく、まず認めるのです。


もうすでに、律法はイエス・キリストによって確立されているのですから。(ローマ3:31)


そして、イエス・キリストを信じた者は・・・、


神の子どもとされているのです。」(ガラテヤ3:26)