「罪を犯した」から罪人ではなく、「初めから罪人」だから罪を犯す!?

聖書は「全ての人は罪を犯した」(ローマ3:23、5:12)と言います。「あなたたちは罪人なのだから、悔い改めなさい」と言われたのではないでしょうか・・・。


ところが聖書には、「罪を犯したから罪人だ」とは教えていません。「罪人(性質)だから罪を犯す」(ローマ5:19)と教えているのです。この違いがお解かりですか。


罪を考える上でまず、「人間とは?」ということと、罪を知る必要があります。


初の人アダムは神ととても良好な関係にありました。しかし、エバという女性が与えられ、サタンにそそのかされ食べてはいけないと言われた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまった結果、罪が入りました。「罪」は原語では、「的を外す」と言う意味があるそうです。つまり神の基準から外れ、自分の基準を設けてしまったのです。そして、神とのパイプであった霊の機能が死んでしまいました。


人間は霊(プニューマ)、魂(プシューケー)、身体(ソーマ)からなっています。(テサロニケⅠ・5:23)罪によって霊の機能が死んでしまった人間は、生きるために魂(知・情・意)を必要以上に働かせこの世で生きていかなければならなくなりました。(本来であれば、哲学なんていう学問は必要なかったのでしょう。自分で生きる意味を探すことなどないのですから。)
ここで「『命の木』からとって食べていれば・・・。」と考えることは無意味であることに気づくでしょう。「多くの子らを栄光へ導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。」(新共同訳 ヘブライ人2:10,11)※これは別の機会に説明します。


このようにしてアダムからはじまった人類は皆、罪の性質を持っている(罪人)のです。(ローマ3:9)
だからパウロは、「罪を犯すのは、私のうちに住みついている罪だ」と言っているのです。(ローマ7:17)ところで原典では、ローマ人への手紙は5章11節までのほとんどが「複数形の罪」として取り扱われています。ところが5章12節以降になると「単数形の罪」として書かれています。「複数形の罪」は私たちが日々犯してしまう罪です。そして、「単数形の罪」というのが原罪と言われ、アダムから始まった罪です。
こうして「罪が世界に入り」(5:12)、「罪が生きて私は死に」(7:9)、「したくない罪を行わせる」(7:17〜20)のです。
自ら(サタンにそそのかされましたが)「善悪の知識の木」を選び取り、神の基準から外れて、「自分が基準となりあたかも神のように振舞う」ことが「罪」なのです。






「キリストなんて僕には関係ないよ」という人を見かけます。また、「罪人というけれど、私はまじめに生きているし、人に迷惑をかけるようなことはしていない」という人もいるでしょう。ここでもう一度考えてみてください。


あなたは、怒ることはありませんか?
他人を羨んだことはありませんか?
嫉妬したことは・・・? ののしったことは・・・?
嘘をついたこともありませんか?
赦せない人はいませんか?
旦那さんや奥さん、子供にイライラしたことは・・・?
これらの感情や行為はすべて「自分を基準に考える(自我)という原罪」が働くからなのです。それゆえに「全ての人は罪人」なのです。


もちろん哀れみ深い神は人間をこのまま不完全のままにしておくことはされませんでした。なぜなら「罪を犯した結果は死(永遠の死)」だからです。


初めに示した聖書の「全ての人は罪を犯した」の後には、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23)と続きます。また、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19)そして、「恵みが、主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(5:21)


このように神から離れて永遠の死に向かって生きていくしかできなかった私たちに示された愛、すなわち、「私たちに代わって十字架で死なれ、3日後に復活されたて今も生きておられる」と言う事実を信じ受け取るのです。
そして、罪のために他人を気遣い愛すことができなくなった私たちに「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(ヨハネⅠ・3:23)キリストの命令とは、「あなたの神を愛せ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せ」と新たな戒めを定めました。そして「それを実行すれば、いのちを得る」(ルカ10:27、28)のです。


キリストが十字架で流された血は、私たちのすべての罪(複数形)を洗い流して、天の父の前に聖い者としてくださるのです。私たちは、確かにイエス・キリストの贖いによって神との関係を回復ししました。しかし、全ての罪(過去・現在・未来の罪)が赦されているにもかかわらず、私たちは自分の中に「罪の性質(単数形の罪)」があるために、神との親密な関係に入ることはできないのです。聖書の約束を信じる、と言いながら平安をおぼえることができないのです。これは私たちの自覚の問題です。


聖書は「複数形の罪しか赦されていない」と言っているのでしょうか・・・。いや、そんなことはありません。キリストの十字架は「単数形も複数形の罪も処理された」のです。


どういう方法ででしょうか。罪の古いからだ(霊的な)は、「キリストとともに十字架につけられ」(ローマ6:6)、「キリストとともに死んだ」(6:8)のです。そうであるならば、「死んでしまった者は、罪から開放されているのです」(6:7)


信仰とは、神の御業を「信じ、それを実証化する」ことなのです。


ここから先は、次の機会で説明します。