その愛は、誰のため・・・?



じいさんと、教会に来て帰りに食料品などを買う約束をしていました。ところが、出かける少し前に電話があり、「着替えしてたら、どうも調子が悪いんだ・・・。やっぱり、行けねぇ。」ということでキャンセルとなったのです。(初めのころは、行けない理由として「一身上の理由で・・・」と言っていたのを思い出しました。義務でも強制でもないのに・・・。)


礼拝の後に頂いた昼食は、数種類の季節の野菜を使った純日本食のメニューで品数も多く、満喫させていただきました。「こんな食事はじいさん喜ぶだろうねー」ということで、ご年配の姉妹を送っていく帰りにプレートに綺麗に盛られた豪華ランチをおみやげにじいさん宅へ。


「どお、今晩の夕食は豪華でしょ!!」と手渡すと、何やら複雑な顔をして無言で受け取り、炊事小屋にある冷蔵庫へ持って行きました・・・。


何かあったのかな、気に入らなかったのかな、などと思いじいさんを待っていると、「こんなことをしてもらったって、行けねぇものは、行けねぇーんだ!!」と少し声を荒げるのでした。


一瞬何を言っているのだか分からず、じいさんの顔をのぞきこむと、口を固く結びしばらく黙っていましたが、続けてこう言いました。


「こんなことをしてもらわなくても、行く時は行くんだから・・・、でも行けねぇ時は行けねぇーんだ!!」これはじいさんの訴えだったのです。


このひと言は、私のこころに鋭く突き刺さり、身体じゅうに毒が回っていくように今までじいさんとのかかわりを回想させられました。やっとの思いで、「もちろん○○さんには教会に来て欲しいけれど、来たら食事をあげるなんて一度でも言ったことがある?それを交換条件にしたことがあった?」と言うのが精一杯でした。


意識はしていませんでしたが急所をつかれた私は、裏切られたような悲しみと怒りを抑えながら、「別に教会なんか来なくてもいいんだよ。来ることが大切なんじゃないいんですよ。○○さんのことを心配して来ているんだから。」と。この時は完全に寛容な愛は飛んで行ってしまいました。


自分のこころの隅で隠れていた“傲慢の罪”を見透かされて、そこを突っつかれたので相手に自分の中の罪を投影させて怒ってしまったのです。(人は本当のことを言われると怒るようです。)


つまり、自分に対して怒っているのです。そして、自分自身で傷つけているのです。


なんともやり切れない思いのまま「また、何かあったら電話してね。」と言い残し、足早にじいさん宅を後にしました。車の中で、“自分のしていることは何だったのだろうか・・・”“偽善者なのだろうか・・・”という人の愛の限界と、“愛は寛容、親切・・・高慢にならず(コリントⅠ・13:4)”という主の愛とが交互に頭の中を廻っていきました。





人間の愛は完全ではありません。そこには、必ず見返りをこころのどこかに隠しています。人間はキリストを見習うことはできても、キリストと同じことはできません。


神は人間に何かを期待しているのでしょうか・・・。弱く罪深い私たちに・・・。何もできない私たちに・・・。


初めから、私たちには何も期待などしていないのです。だから御子イエス・キリストを私たちの身代わりにし、十字架で罪を処分されました。


人間には、何もできないのです。それゆえに、神がなされた御業を「そうだったんですか。ありがとうございます。」と、素直に信じ受け取ればよいだけです。同じように、救われた後も、自分には全く何もできないことを知ることです。


神が期待しているのは、イエス・キリストただお一人です。私たち人類をイエスの命に閉じ込めて、イエスの信仰(私たちの信仰は誤訳)をご覧になって満足されているのです。(ガラテヤ2:20)


私たちにできることは、「互いに愛し合うこと」(ヨハネ15:12)という戒めを守ることであり、その結果、「私の父の愛(完全な愛)の中にとどまっているのと同じ」(ヨハネ15:10)なのです。


私たちの中で働いてすべてをなしてくださるイエス様に委ねて、時々落ち込みながら(笑い)歩んで行きたいと思います。