神の贖いとは。時空を超える、十字架の贖い

このような疑問を持った方はいませんか?


「キリストは、約2000年も前に死んだのに、なぜ私たちの罪の犠牲になることができるのですか・・・?」これは、当たり前な疑問であり、聖書を考える上でとても重要なことです。


まず、“神の時間と人間の時間”を理解する必要があります。人は空間(地球)という制限の中で生きています。また、そこでは時間が支配しています。今こうしている時間もすぐに過去に追いやられて、後戻りはできません。もちろん先に進むこともできません。


一方、神はどうなのでしょうか。聖書には「この空間(宇宙)を創り、時間も創った」(創世記1章)とあります。神が創られたのですから、神は時間や空間に縛られることがなく、この制限の外におられます。


言葉を換えて言えば、神の前では時間というものは、過去・現在・未来という時間の経過がないので、すべてが“一瞬の今”として捉えておられる、と考えられます。まず、このことを理解しておかなければなりません。


聖書は「私たち人間は、罪人だ。」と言います。正確には、「罪の性質を持っているので、誰でも罪を犯してしまう。だから、罪人だ。」なのです。罪の結果は、死と死後の裁き(身体は死にますが、霊はいつまでも生き続けます。)です。神は完全な方ですから、罪を赦すことはできません。(もし赦してしまえば、自分を不義に陥れることになる)


そこで、愛する人間のために驚く方法で罪から救おうと決めました。それが、「身代わり(十字架の贖い)」なのです。





エスが生まれる前の旧約の時代


ヘブル人への手紙9・10章から説明していきます。旧約の時代は幕や(大型のテント)を造り、聖所と至聖所に分けて礼拝や罪の赦しのための生け贄を捧げていた。至聖所には大祭司だけが動物の血を携えて入って行き、犯した罪の赦しのために身代わりとなる動物の血を捧げていました。


「動物の血を捧げるなんて、残酷だ。」と考えるかもしれませんが、それは間違いであることが分かるでしょう。罪の結果は、死と永遠の裁きでした。それを“身代わり(十字架の贖い)”で赦してもらえるのです。それなら、対価として人間の考えられる最高の価値あるものを差し出すはずです。


それが、“動物の血”なのです。血はいのちです。地上では価値がある金や銀、宝石などは神にとって、何の意味もありません。いのち(血)だけが唯一、神の基準を満たすものなのです。


ところが、「動物の血では神の赦しは受けたが、罪を取り除くことができない」(9:9、10)(10:4、11)と書いてあります。それでは、旧約の人々は、罪が取り除かれていなかったのでしょうか。


また、何(誰)が罪を取り除くことができるのでしょうか・・・?


救い主であるイエス・キリストだけが罪を取り除くことができる」(ヨハネ1:29)のです。


タイトルの「時空を超える、十字架の贖い」とは、神の目には動物の犠牲の生け贄でも、御子イエスの贖いとしてご覧になられる。つまり、時間の制限のない神には、イエスの十字架刑をいつでも今のできごととして受け取ってくださいます。


このことを聖書は遺言に例えて説明しています。遺言は書いた人が死んで初めて効力を発揮します。同様にイエスが十字架で死なれて初めて効力を発揮するのです。(9:16、17)


そして現在も、イエスの“罪の贖いと永遠のいのち”という遺産が相続人である私たちに与えられているのです。


こうして、旧約の時代の人々に“十字架の贖い”が成就(影が実態となる)しました。


(次回は新約の人々)