神の贖いとは。時空を超える、十字架の贖い(その2)

エスが死なれた後の、新約の時代(私たち)


旧約の時代は、イエスの代わりとして動物を犠牲にしました。そして、イエスは十字架にかかって死なれました。


「どうして、自分がまだ生まれていないのに、イエスが身代わりになることができるのか?」と質問された方がいました。もっともな疑問です。


犠牲であるならば、旧約の時代のように何度でもイエスは十字架にかかる必要があるのでしょうか。


「時空を超える」とした意味は前回説明しました。神にとっての時間は、過去も現在も未来もすべて、“今の時”として見ておられるのです。(人間の便宜上、時間を創ったのでは)


ヘブル人への手紙には「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」(7:24)とあり、「・・・・・ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」と説明しています。さらに「・・・・ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:12)とハッキリと書かれています。


ただ一度」「永遠の」とはなんということでしょう。もし、この地球と人類がこれから先100年、200年と存続していくとしたら、「イエスの贖い」の効力は続いていくことになります。


これから生まれる子どもや、まだ救われていない方々の罪の贖いのために、イエスに再び十字架にかかっていただく必要はありません。このイエスがなされた“贖いの功績”に与ればよいのです。


それには、ただこのことを“信じて受け取る”のです。


なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これほどまでに、この世(人々)を愛しておられるからです。


旧約の時代は、神に選ばれた大祭司だけが血を携えて至聖所に入って行き、神と会いました。現在は主イエスの血をとおして、私たちイエスによって贖われた者は大胆に至聖所に入って行き、神の御前に近づくことができるのです。(ヘブル10:19.20)こういうわけで、私たちにはいつでも神に直接祈ることができるようになり、そして礼拝できるのです。なんという特権ではないでしょうか。


すべてが主イエス様の十字架の贖いのゆえです。ですから私たちは、「主イエス・キリストの十字架以外に誇とするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)