本当の神に出会った人々


世の中には色々な神が存在するようです。


人のDNAには、神によって創られた痕跡があるように思えます。なぜなら、誰に教えられなくても手を合わせて、見えないけれど人間を超越した存在に祈ります。


また、信仰がなくても神社があれば拝み、お寺の仏像の前ではこうべを垂れて自我を満たす願いを祈るものです。


さて、これらの人々は何に向かって手を合わせ、何を拝むのでしょうか。「まあ、なんだか分からないけれど、どれか一つぐらい願いをかなえてくれる神や仏があるだろう・・・?」なのでしょうか。


聖書には、パウロという宗教の指導者が自分たちに都合の良い神を造り拝んでいるのを見て、「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるのを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒の働き17章23〜25節)と、創造主である唯一の神の存在を教えました。


人は誰でも神(自然を超越した存在)を求めるこころが残されているようです。だからそのために拝む対象物を造り、神として崇拝します。それを聖書では「偶像崇拝」といいます。


「神などいない」と言う人もいるでしょう。「わかりもしない神に頼るのは弱い人間だ」と考えている人もいるでしょう。新約聖書のローマ書には「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁明の余地はありません。」(ローマ書1章20節)とあるように、ある時は自然の災害(本当は営み)などを通して創造主を知り、人間が神を畏れ敬うこころが生まれて、神に立ち返るようにされているのです。神の存在を知ることができないのは、心の目が開かれていないからなのです。


神を知らない人生はむなしいものです。そのむなしさや満たされることのないこころの隙間を何かで埋めようともがいているのが、神から離れてしまった人の姿です。


あなたも、明確にこころを向けて祈る対象を見つけませんか。


今まで満たされることのなかったこころの溝を、埋めてみたいと思いませんか。


神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの手紙第一・2章4,5節)<次回へ続きます>