狭き門


狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入っていく者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです
。」(マタイ7:13,14)


群集を前にしてイエスは、哀れみとこころに深い痛みを持って語られたのだろう。
広く大きい(見えるだけだが・・・)門を選ばされて肩をうなだれて歩く民を見ながら・・・。


それくらい天の国は「完全な聖(愛)の世界」なのだろう。少しの雑菌(罪)の入る余地を与えない。


いづれにしても私たちには、この「罪の肉」があるゆえに狭き門なのだ。
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。
ひとりもいない
。」(ローマ3:10〜12)


誰一人としてこの門から入る資格はない。それは、神の前で絶望するしかできないことを意味する。


完全な愛である神は少しの妥協もゆるさない。しかし、イエスは「入る方法がない」と
言われたのではない。狭いけれども門は開かれていることに希望を見出だし、探り求める
ことができれば幸いだ。


完全な愛であり義である神を満足させたのが「御子イエスの十字架の贖い」なのだ。
「十字架という最も重い処罰」しかなかったのである。ここには偽善や、人間の甘っちょろい
愛の解釈をはさむことは許されていない。


この宇宙の真実は、たとえこの世しか見られない人々にとって「無意味な愚かなことと思えることでも、
エスの十字架での贖いを、真に自分のこととして信じて受け取った者には、神の力として現れる

(コリントⅠ・1:18)のだ。


重い罪の肉(身体)と肉の思いをこの地上に脱ぎ捨てて、御霊を宿した霊だけが天の国に
入ることができる。


今もなお、罪人でしかない私たちは、キリスト・イエスの十字架から離れては一歩たりとも
足を前に踏み出すことができないことを知ることが必要だ。


このように救いの道(イエスの十字架)を明確に示している宗教(宗教ではないが)はほかにはない。
たとえそれが狭き門であっても、神の愛以外のなにものでもない。