人は贖われなければならない存在だ!!

聖書は「人の邪悪さ」を、徹底的に描き出しています。


創世記では、神の手から滑り落ち、破滅へと向かってゆく人を描いています。
次の書では、人が贖われるのを見せています。そして、レビ記では、人がどれ
だけの重い罪があり、その罪が許されるためにどれだけの尊い命の犠牲が必
要であるかを示しています。そして、幕屋の真の意味を教えています。


私たちはもう一度、罪の重さを確認しなければなりません。たんに謝って済む
ほど簡単なものではなく、「贖われなければならないほど深刻」であることを認識
しなければなりません。


新約聖書のみで救いの全貌を見ることはできません。まず、罪の恐ろしい現実
を直視し、理解する必要があるのです。


レビ記では5つのささげ物やいけにえが示され、1点の悪の性質さえ持ち合わせ
ない聖いお方に近づくことができない人間に道を備えてくださいました。


恐ろしい罪のために神から離れ、係わりが一切断たれた人のただ一つの望みが、
いのちの犠牲です。「すべてのものは血によってきよめられ、血を注ぎだすこと
がなければ、罪の赦しはないのです
」(ヘブル9:22)


生まれながら持っている原罪のために、日々犯してしまうさまざまな罪のために
厳格な基準に従って、完全な犠牲を必要とします。


それでもレビ記で捧げられた犠牲の数々は、決して神を満足させるものではあり
ません。これらは、すべて御子イエスの影でしかありません。


唯一の犠牲は「キリスト・イエス」しかないのです。神から、イエスの証しのために
召されたヨハネは始めに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と紹介し
ています。


これらの犠牲は「イエス・キリスト」を示しているのです。


完全で義なる神は、罪を裁かないわけにはいきません。しかし、裁かれる神である
と同時に、救い主でもあることを忘れてはなりません。


レビ記で、贖われなければならないほど重大な罪を示し、その罪の裁きのすべてを
キリスト・イエスに負わされました


こうして全人類は、キリストの十字架の贖いの死を信じ受け入れるだけで、神の
裁きと永遠の断絶を免れて、神の祝福の交わりへと移されたのです。


神の裁きから祝福へと変えら、神の国の相続人とされた私たちにも「いけにえ」が
必要です。全焼の・罪のための・罪過のためのいけにえはもう必要ありませんが、
祭司となった私たち」(ペテロⅠ・2:9)は「生きた供え物」(ローマ12:1)となって
神に仕えるのです。


生きた供え物ですから、死んだ動物と違います。つまり生きているので意志があり
ます。その自由な意思を主に向ける(自発的に)ことが生きた供え物です。


そしてそれが、「霊的な礼拝」(ローマ12:1)です。


礼拝は守るものではありません。わたしたちができる唯一の主との交わりである
ことを覚えておきましょう。


自発的(生きた供え物)に、罪のために犠牲になってくださったイエスを常に思い
(十字架を背負い)、「感謝のいけにえを携えて」(ヘブル13:15)主の元に近づ
いて行きましょう。


主を喜ぶことは私たちの力」(ネヘミヤ8:10)なのですから。