「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」 聖書(その3)

言葉とクオリア

 「クオリア」とは脳科学者の茂木健一郎さんによれば、

クオリアは『赤い感じ』のように、私たちの感覚に伴う鮮明な『質感』を指します。クオリアは、脳を含めたこの物質の物理的記述と、私たちの心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です」

 つまり、私たちは赤い色を見て何かしらの「質感(ひとそれぞれ違う)」をもちます。また、ガラスを見れば冷たさや脆さ、また、ゾクッとするような材質から伝わる波動を感じるかもしれません。
私たちそれぞれの、「主観的体験から引き出される質感」と言われています。
クオリアという概念が提起される前は、「人間の意識は脳という機械(物質)の産物である」と、唯物論者や科学者は考えていたようです。
だがそこには「なぜ脳がこころを生みだしたのか」という問に答えをだすことはできません。
私たちが暮らすこの空間の一面しか理解できないで、この「クオリア」の本質に迫ることはできないようです。
 また茂木さんは、

「人間の経験のうち、計量(科学は計量できる経験だけに絞ったとする説)できないものを現代の科学では、『クオリア(感覚質)』と呼ぶ」「意識の中で『あるもの』と他のものと区別されて把握されるのは、全てクオリアである」そして、「私たちの心の中には、数量化することができない微妙で切実なクオリアが満ちている」
茂木健一郎著「脳と仮想」より

クオリア」とは私たちの内にある霊の作用である。
意識するしないにかかわらず、霊のうずきが現実のこころの働きにかすかな記憶となって現れる。
目の前の赤を見て「クオリア(質感)」が生まれるのではなく、「クオリア」が本質であり、たまたまその質感を呼び覚ます「こころの刺激」が赤だったのかもしれません。

「脳がいかにしてこころを生みだしたのか」の難問に、科学という「限界があるフレーム」を取り外して考える必要があります。
「脳はこころを生みだす必要があった」と、考えるほうが正しいのではないでしょうか。
自分の能力で生きていくために・・・。(自分で選択したために)
必要以上に肥大化させたこころ(魂)は、ますます真理から遠ざける方向に進んでいるようです。

無邪気な少年の「ありがとう」からは、切なさもにじみ出てくるようだった。
それは、まぎれもなく「クオリア」として伝わってくる神の呻きであった。

神はこの有限の世界を「ことば」によって創られた。
そして、ことばは「神」であった。