こころの中を、のぞいてみれば。


ある日の午後、駅のホームの階段を前にして、見るからに「海外旅行から帰ってきました」
というスーツケースに身を預け、階上へと駆け上がる力を蓄えている老婦人が目に入った。


人の流れにまぎれ、急いだフリをして見過ごすことができずに、「上まで持ちましょうか?」
と、声をかけるとにこっと微笑む。


「ありがとう」と婦人は待っていたかのように安堵感を漂わせた。


「重いですよ・・・」とポツリとひと言添えた。


婦人が持っている荷物だから「軽い」という先入観と、自分のバッグで片手がふさがっている
こともあり、空いているほうの手で「ヒョイ!?」と掴む。


手の筋肉が伝える重力は即座に肩、腰の神経と連動し脳へ「片手では持てない」と信号を発し、
結局自分のバッグを夫人に預け、両手で階上まで引きずり上げることになった。


「なんて重いケースを持ってやがるんだ・・・」という、こころの棘を押し込み靴底でコンクリート
しっかり噛みしめる。


ひとの脳は「その一瞬の場面」を捉え、少ない情報から判断しようとする。
それが、ほとんどあてにならないことを思い知らされる。


婦人は小さな身体を深く折り曲げて「本当にありがとうございます」と、感謝を全身で表した。


「どういたしまして」さわやかな風に背中を押されるように立ち去った。


わたしには、この婦人がどういう思いから旅先で買い込んだおみやげが、スーツケースを
軋むまでに重くするのを手伝っているのかなどと知る由もありません。






理解することのむずかしさ

電車には、お年寄りや身体が不自由な方の優先席が設けてありますが、通勤・通学時間帯は
ほとんど無法地帯と化しています。


混雑する車内で、そんな優先席を陣取り化けることに余念のない女子高生を目にする。


だぶだぶのハイソックスは、かろうじて足首に絡まっている。
季節はずれの日焼け顔は、みるみるホワイトパンダ(?)に大変身。
駅で停車した電車は、試すかのようにおばあさんを彼女の目の前に運ぶ。


「この子には年寄りを労わる、なんて気持ちなどあるわけないだろうな・・・」。


まるで人格までも決めつけるような思いを彼女にぶつけた瞬間、慌てて化粧道具をかばんに
放り込み、すくっと席を立ち上がり「おばあさん、どうぞ!」と席を譲ってドアの方へ退いた。


「おばあちゃん好きの優しい子」というイメージを、わたしは想像することができませんでした。


わたしのこころが貧しかったのです。


このふたつの話は、特別なできごとではなく実は日々経験していることなのです。







家庭内では、子供の言動を前後に隠れている長いいきさつを思考の場にのせることなく、
頭から押さえつけます。しかも、親の常識や都合をかざしてこころの中まで土足で入り込んで
いきます。


職場ではどうでしょうか。


上司は部下に目の前の結果だけをみて、自分のこころの狭さを隠すように、簡単に雷を
落とします。


そして、誤解を受けた子供や部下は、そのときにこころの底からこう叫ぶのです。


「あんたに何がわかるんだ!」と。


親子でも夫婦の間でも相手を理解するには、思いを言葉にしなければ伝わりません。
そして、相手を理解しようとじっくり聴く努力が必要なのです。