「あしあと(FOOTPRINTS)」

初めてこの詩を読んだとき、胸が熱くなり、思わず涙がこぼれ落ちそうになりました。





ところでわたしも人生では、そろそろ秋。冬支度をしなければなりません。そのため、この詩の作者(Mさん)のように、「これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた」という文章が、わたし自身にピッタリと当てはまっているのを実感しました。


さてMさんは、ある夜、夢を見ました。これまで主と共に歩きつづけてきたので、当然、砂の上にふたりのあしあとがあるはずです。


ところが「わたしの人生で一番つらく、悲しいとき」には、あしあとが一つしかなかった、というのです。だから、「一番あなたを必要としたときに、あなたはなぜ、私を捨てられたのか、わたしにはわかりません」という悲痛の叫びが、口から出たわけです。


ところが、主はMさんに、優しくささやかれました。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛しているよ。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試練で疲れきっているときに、あしあとが一つだったのは、わたしがあなたを背負って歩いていたのだよ」これは、聖書の中の「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた」(イザヤ書63章9節)というお言葉の成就です。


ここで特に「私の大切な子よ」と、主がMさんにささやかれた言葉に注目する必要があります。救い主イエス・キリストを信じた人はだれでも、すべての罪がゆるされ、神の子されるのです。しかし、わたしたちが神の子とされるために、神の側でどれほど大きな犠牲が払われたかを知らなければなりません。



神の独り子イエス・キリストは、罪のために離れていたわたしたちを神の子にするという目的で地上に降り、そして十字架にかかってわたしたちのために贖いの技を完了されました。この宇宙の真理を信じて神の子とされた人たちは、神の目から見たら、キリストのいのちと同じほどの価値がある存在となるのです。


そのため神は、イエス・キリストを信じて神の子として生まれ変わった人たちをご覧になり、このように言っておられるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)


だから、この詩の中に「わたしの大切な子よ」という表現が見られるのです。


このように、イエス・キリストを信じて神の子とされた人は皆、神の目からみたら、高価で尊い存在となるのです。だとしたら、神は、ご自分にとって、この上なく貴重な宝を、たとえどのようなことが起こっても、見捨てられるはずなどありません。ということは、神の子が失敗しようが、挫折しようが、神はその人の一方的な見方になり続けてくださる、ということなのです。また神はその人を、一方的に愛しつづけてくださるということです。


この二つの真理が大前提となって、Mさんの人生は展開されていったのです。


誰にでも神の子とされる権利が与えられているのです。この権利を行使するのもしないのも、あなた次第なのです。


あなたも、このお方を信じてみませんか。


そして、いのちへと続く道を一緒に歩みませんか。