生きる力を回復しよう!

いつだったか、早稲田大学加藤諦三教授が「ヒトは、生きる力を失うと理屈っぽくなる」と言っていた。


「生きる力」とは、自分の努力で発揮する力のことでしょうか。

「私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」(旧約聖書 伝道者の書7章29節)

聖書には、「人は多くの理屈を捜し求めた」とあります。
そこには、生きていくために理屈が必要になった理由があるのです。







親の腕に抱かれて眠る幼子は、「落とさないでいてくれるかどうか心配で、眠ることができない」と、考えるでしょうか。


乳飲み子は、明日の食べ物の心配をするでしょうか。


子にとって親の愛情のすべてが「生きる力」であり、生きるための理屈など必要がないものです。
ましてや、その子の前に「生きる意味」などないのです。


「当たり前」なのですから。


発展途上国には、この裕福な国に生まれた子どもには、想像もつかない世界が存在します。
貧困のために親に捨てられ、生きていくための食料を自力で確保し、寒さに震えて朝を待つような日々を創造できるでしょうか・・・。


この子達には、「生き抜くための精一杯の理屈」が必要になるのです。


親の「愛」を失った代わりに、「こころ」を必要以上に肥大化し、この悪意に満ちた世界でやりくりするようになるのです。


それでは、私たちはどうでしょうか?


実は、途上国の子どもと変わりが無いのです・・・。


神から離れているために、己のみを信じ、存在の意味や生きている目的までも創造して生きているのです。








今こそ、創造主である神の存在を受け入れ、親子の関係を修復するときなのではないでしょうか。
人類のさまざまな不幸は、神から霊的に離れてしまったことから起こるのです。


この世の中は、神を隠し、意図的に神から離す力が働いています。


やがて、滅亡へと進んでいくこの世から、希望へと変えてくださる神を信頼して歩むことができたらなんと素晴らしいことでしょうか。


それには、この創造主と和解するしか方法がありません。つまり、罪(肉体を持っている以上誰にでもある)を赦していただくのです。


それが「イエス・キリストを信じる」ということなのです。


なぜなら、神は絶対的な存在であり聖なるお方ですので、私たち人間の持てる努力では、赦されることはないのです。


しかし神は「愛」であるため、御子であるイエス・キリストを犠牲にされました。そうまでして神は、私たちを愛してくださっているのです。


よく聞くことですが、「もう、俺なんか・・・」、「さんざん悪い事をしてきたから・・・」と人生を投げてしまう人がいますが、イエスはこう言いました。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」  (マルコの福音書 2章17節)


私たちにできるのは、ただ、それを信じ受け取るだけなのです。


どうぞ「生きる力」を得て、「絶望へと向う暗闇の道」から「希望へと続く光の道」を一緒に歩みませんか。