障害を持つということ

教会で姉妹の話された言葉に、自分の信仰を考えさせられました。


それは、ある聾唖(ろうあ)の方の死生観についてでした。


その姉妹は以前、聾唖の方(クリスチャン)の葬儀で彼らは涙を流さないことに気がついたそうです。もちろん、全ての方がそうではありませんが、悲しみではないそうです。


何故でしょう・・・。


「やっと、この不自由な身体から開放される」からだそうです。


わたしはこの話を聞いて、なんとも複雑な気持ちに襲われた自分に気がつきました。


近しい方の死を前にして涙も流せないとは・・・。


生きていることよりも、どれだけ死(天国)を待ち望んでいることなのか・・・。


わたしも死の先にある明確な希望をもっています。それでも、この聾唖の方に分かったような言葉をかけることはできないでしょう。





五体満足に生まれ、一応(?)不自由なく暮らせるわたしには、障害を持たれている方に向って「生まれてきた意味があるんだよ!」などと無神経な言葉を投げつけることはできない。


死を前にしている障害者の方に「やっと、不自由な身体から開放されるね」と、突き放すことができるだろうか。


それは、人にはできないことです。一緒に痛みや苦しみを味わうことはできません。


それでも、あえて神であり人となられて「私たちが経験する以上の罪や苦しみ悲しみ」を背負われて十字架で死なれたイエス・キリストの真実の前に、口を閉ざしているわけにはいかないのです。


全ての王であるのに金の冠をかぶらずにいばらの冠を選ばれ、王座には就かずに十字架に括りつけられ蔑まれツバキをかけられ殺されていった・・・。あまりにもむごく、あまりにも偉大な死を、歴史から消し去ることなどできません。


なぜ、そうにまでして死ぬ必要があったのでしょうか?


私たちに代わって、閉ざされていた「いのちの木の道」を選ばさせるためでした。


イエス・キリストは悶えるような苦しみや孤独に耐え、人類のために道を造ってくださったのです。


生きているこの世界が全てでしょうか?


眼に見える物質の世界だけが、全てでしょうか?


私たちが死んだら、それで何もかも終わるのでしょうか?


人は生きている「今この時の豊かさ」だけを求め、無理やり帳尻を合わせようとしながら生きています。死という迫りくる現実を隠しながら・・・。そして、あたかもその先の時間がないかのように。


80年くらいのわずかな時間内で、生きている意味や存在価値を生み出すことができるのだろうか。


この肉体(こころと身体)が本質ではなく、霊が本質だと聖書は言います。つまり、肉体の死が死ではないのです。肉体を離れて帰るところがあるのです。(Ⅰテサロニケ5:23)(ルカ8:55)(伝道者12:7)


そして、天地を創られた神と共に生きていくようになるのです。そこからが、本当の人生なのです。


太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となるり、あなたの神があなたの光栄となる。」「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(イザヤ書60章19・20節)
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3・4節)