なぜ、イエスキリストは救い主として来なければならなかったのか?

聖書に興味を持って読まれていた方が、ある聖句で失望し、それから聖書を開くことを止めたそうです。
そんな話を聞いた後に、ある方のブログで紹介されていた記事がその失望した箇所だったので、こちらでも引用させていただきます。
その聖句は「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」     (新改訳聖書 マタイ5章27節・28節)


ある牧師のメッセージを引用させていただきます。
「引用開始」


女性を女性として見ない?

 きょうの聖書の箇所は、たいへん有名な箇所です。そしてキリスト教の倫理の特徴の一つとして考えられてきたものです。
 ところが、以前の聖書の言葉をご存じの方ならお気づきのことと思いますが、今私たちが手にしている新共同訳聖書では、たいへん大きな変更がなされています。それは「みだらな思いで他人の妻を見る者は」という言葉です。この言葉は前の口語訳聖書では「情欲をいだいて女を見る者は」となっています。つまり大きな違いは、「他人の妻」という言葉になっていることです。
 これは一体どちらが正しいのでしょうか。もし「他人の妻」という方が正しいとすれば、「他人の妻でなければ、みだらな思いで女性を見ても良いのだ」ということになります。また「女」と訳せば、これは、もうあらゆる女性が入るわけです。‥‥これは大きな違いです。
 実をいうと、問題の言葉は「ギュネー」というギリシャ語なのですが、主な聖書は皆「女」と翻訳し、新共同訳聖書だけが「他人の妻」と翻訳しているのです。そうするとふつうはここは「女」という意味にとります。それで、聖書に触れる多くの人は、このイエスさまの言葉があまりにも厳しい言葉に感じられて、困惑させられてきたわけです。
 椎名麟三という小説家がいました。プロテスタントの代表的な作家でした。戦後クリスチャンになった人です。この人の書いた本の一つに『私の聖書物語』(中公文庫)というのがあります。椎名麟三がキリスト信徒となった証を中心に書かれている本です。とても正直で、しかもユーモラスに書かれており、私の好きな本の一つです。
 椎名麟三は、その本の中で、きょうのこの御言葉について書いています。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(口語訳)について、「男が男である限りにおいて、この命令もやはり人間性を超えているのである」と書いています。そしてこう書いています。「私たち男どもの仲間では、よくこんな告白がささやかれる。それは、このごろ妻に女を感じなくなったというような告白である。このような告白を夫から面と向かって聞かされた妻は、どんな感じがするだろう。少なくともいい気はしないに違いないのである。」そうして彼は、「情欲を感ぜずに女を見ているときは、その人を女としてではなく、他の何かとして見ているということである」と言います。そしてこう書きます。「だから姦淫に関するこのイエスの命令も、残念なことに、やはり私に人間としての限度を超えた要求であるように思われたのである。そこで私は、女に対して男でない何かになるか、女を女でない何かとして取り扱うかするより仕方がないように思われた。そしてその形の最も純粋なあり方は、男は女に対して人間ではない何かとなることであり、女を人間ではない何かとして見ることである。言いかえれば男は、女に対して木石となり、あるいは女を木石として見ることをイエスは要求していることになるのである」。
 そして、このことは、言ってみれば、イエスは私たち人間に対して鳥のように飛んで見ろ、と言われているのと同然であると書きます。そして手をばたばたとしてみて飛べない。それに対して、「飛べないなら地獄行きだ」と言っているのと同じことだ、と思ったのです。そして、飛べないことを罪だというなら、それは人を飛べないように作った神に責任があるのだと思われたと書いています。このイエス様の言葉はそれと同じことであると。
 初めに聖書に接した椎名麟三はそう思った。そうつまづいた。しかし、それでも彼は聖書から離れることができなかった。それは、彼の心の中に救いを求める気持ちがたいへん強かったからなのですが、このことについてはまたの機会にお話ししたいと思います。つまりまじめに主の言葉を聞くからこそ、つまづきそうになるのです。

     「他人の妻」は誤訳

 主イエスは本当に、実行不可能なことを言われたのでしょうか。
 今私たちが手にしていいる聖書は、ギュネーというギリシャ語を「女」と訳さずに、「他人の妻」と訳しています。そうすると「他人の妻であるならば、このイエスさまの教えも守ることができるだろう」ということになるでしょう。もちろん「不倫」ということが、あちこちでおこなわれ、昔のように抵抗がなくなってしまった現代においては、「他人の妻」ということだけで、あるいは女性から見れば、「他人の夫」というだけでも、ましてや心の中でそう思っただけで、姦淫と同じであるということは、たいへんなことなのかも知れません。しかしやはり「他人の妻については、イエスさまが禁止したからそのような目で見ることは許されないが、他人の妻でさえなければよいのだ」ということになるでしょう。そうすると椎名麟三がつまづいたことは、かわいそうに聖書の誤訳のためにつまづいたということになる。
 このように、「ギュネー」というギリシャ語を、「女」と訳すのか、それとも「他人の妻」と訳すのかでは大きな違いがあります。実は、ギュネーというギリシャ語は、そのどちらにも訳すことができるのです。だからここだけ取れば、どちらの訳も間違っているとは言えない。そうするとますます困ってしまうわけです。
 そこで、まず注意して読まなくてはならないのは、きょうの聖書の箇所の最初の言葉です。「あなた方も聞いているとおり」という言葉です。‥‥この時イエスさまの周りに集まって話を聞いている人々が聞いているとおりに、と。それはつまり、モーセ十戒を示しています。旧約聖書出エジプト記の20章の14節です。「姦淫してはならない」と書いてある。‥‥このことは、ユダヤ人なら誰でも聞いていることです。そのことをイエスさまはおっしゃった。
 そして、では姦淫とは何か? ということについて、モーセの律法の中でちゃんと書かれているのです。まずレビ記の18:6〜書かれています。その中では、母(それは一夫多妻の血のつながりのない母でも同じ)と関係してはならないとか、姉妹とは、腹違いでも関係してはならないとか、嫁と関係してはならないとか、その中に、他人の妻と関係してはならないということも出てきます。そういうことが姦淫とされているのです。
 そうすると、旧約聖書では、「姦淫」というのは単に他人の妻との間のことだけではありません。そしてきょうのイエスさまの言葉は「あなた方も聞いているとおり」と、その旧約聖書のことを前提にしています。そして旧約のモーセの律法を、形だけのことではなく、その中身を深めているのです。
 先週学んだ「殺すな」ということもそうだった。イエスさまにおいては、「殺す」ということと「腹を立てる」ということが同じように並べられていた。それは殺すということも、腹を立てたり人を馬鹿にすることも、両方とも相手を神さまに代わって裁くことであり、判決を下すことだからです。それは、高慢、高ぶりなのです。その点においては、人を殺すということも、人を馬鹿にすることも同じであるというのです。
 そしてきょうのところでは、実際に姦淫をするということと、心の中で姦淫をするということは、同じことであるということになるのです。  さて、そういうことを考えると、きょうの聖書の言葉はやはり「他人の妻」と訳してはまずいということになります。旧約聖書モーセの律法でさえも、他人の妻だけに留まっていない。それを他人の妻に限定してしまっては、イエスさまの真意と違ってしまいます。主イエスは、旧約が実際に姦淫と呼ばれる性関係をもつことを禁止していたのを、心の中の問題にしたのです。
 だからこそ、椎名麟三はつまづいたのであり、聖書に接した多くの人がここをどう解釈したらよいのかとまどったのです。

     「姦淫」とは結婚の破壊のことである

 さて、この「女」という言葉がもし「すべての女性」ということを指しているとしたら、これは本当に椎名麟三の言うとおり、男からしたら女性を木や石のごとく思えということになるのかも知れません。そして椎名麟三の最初に考えたとおりのものであるとしたら、そもそも結婚ということ自体が成り立たなくなる。「結婚したい」と思うことが姦淫となってしまいます。
 しかし、実は姦淫とされない男と女の関係というものがあるわけです。それは結婚です。そしてこのことを聖書は祝福しています。創世記の最初で、神は人を男と女とに造り、それがお互いに最もふさわしい助け手であるとしておっしゃいました、「生めよ、増えよ」。またイエスさまも結婚を祝福なさいました、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(マタイ19:5)。またヨハネによる福音書では、ガリラヤのカナの婚礼の席で、イエスさまは足りなくなったぶどう酒を奇跡によって足して祝福なさいました。明らかに聖書では、結婚というものを祝福しています。
 そうすると、聖書で言う「姦淫」ということがなんなのか、次第に明らかになってきます。それは、結婚という関係を破壊するようなことを指すのです。
 もし結婚が神さまによって導かれたものと信じることができるなら、それが妻以外の他の女性(女性であれば男性と言うことになるでしょうか)に心を奪われるということが、姦淫となるのです。そういうことです。結婚を祝福し、重んじるがゆえに、それを破壊するような行為を罪としているのです。


※青文字は管理人が強調しました。
「引用終了」


うーん。皆さんはどう思われますか・・・。
さてさて、律法とは・・・。(次回で考えてみたいと思います)