「礼拝は守るもの」なのですか・・・?

ときどき「礼拝を守る」という言葉を聞くことがあります。


さてさて、礼拝は「守る」ものなのでしょうか?


「守る」という心の中には、守らなければならないという義務が生じてきます。「今日は体調が悪いけど行かなければならないから・・・」、「どうしても行きたいところがあるけれど・・・」。出席したものの、牧師の話はうわのそら・・・。


果たしてこれは「礼拝」でしょうか?





聖書には「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 (ヨハネ4:23,24)と書かれています。


旧約聖書は、私たちへの「戒め」であったり、「教育」として捉える必要があります。聖書解説書には、モーセ五書の解説を、1.創世記には、破滅した人間が見られる。 2.出エジプト記には、贖われた人間が見られる。 3.レビ記には礼拝している人間が見られる。 4.民数記には、奉仕している人間が見られる。と、しています。


聖書は書かれた順番にも意味があります。罪を贖われ「救われた人」だけが「神に仕え」、「神を礼拝」することができるのです。ですので、礼拝は「守る」ものではなく、「礼拝をすることができる」のです。そして、その特権を感謝したいものです。


私たちが救われたのは、「仕えるため」なのですね。だからパウロは「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エペソ2:10)と言っているのです。


「こんな私が・・・(これは自分のことですが)^^;」などと思わないで、神様の約束を信頼しましょう。そして、私たちをそのように見て扱っていてくださる「神様の目に叶う者」に成っていけばよいのです。


※「旧約聖書の概説」ヘンリエッタ・C・ミアーズ著、いのちのことば社刊参照
※イラストは「小さな憩いの部屋」さん⇒http://www3.ocn.ne.jp/~byakane/akane.html