友よ、ヨルダン川を渡ろう!!(その3)
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝ったからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」 (ヨハネⅠ・5:4)
聖書には、もう既に「世に勝った」と書かれています。「世に勝つかもしれない・・・」とか、「世に勝つ人もいる・・・」と言うように、希望的なできごととして書かれているのではありません。
一人残らず「世に勝つ」のです。
また、「神から生まれたものは、罪の内を歩むことはできない」(ヨハネⅠ・3:9)とヨハネは言い切りました。
何気なく読み過ごしたり、ヨハネは特別な存在だから・・・、とやり過ごすのではなく、ここは真剣に熟考する価値があるのではないでしょうか。
「勝利ある生活」とは「全ての罪に勝利する生活」にほかなりません。
「勝利」と言う言葉には、何か華やかで誇りたくなるような高揚感を持たせてくれる響きがあります。そこにも肉の思い(サタンのフィールド)をみることができます。いきなり「罪の勝利」と聞かされて少し落胆される方もいるでしょう。また、希望をもって読み進んでいたら、突然大きな壁に目の前を塞がれたように感じられた方も少なくはないでしょう。
それでも、私たちにとっての「勝利」である「罪に勝利する生活」を望まないでしょうか。
引き続き先に紹介した本に沿って考察していきます。
新約聖書の目的は、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れた後の生活を教えている、と言われます。はたして、クリスチャンの生活とは・・・。
主の御使いはイエス・キリストの生まれる前に「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)と告げました。こんどはそのお方が「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と言われました。罪から救ってくださるお方が「完全でありなさい」と命令をされたのです・・・。
イエス様は罪は犯されませんでしたが、人となってへりくだられたのであらゆる罪の誘惑や人が経験する苦しみや悲しみ、また弱さもご存知です。そのお方が、天の父が持っておられる完全さを私たちに要求しているのです。
第五の福音書とされるヘブル人への手紙には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)ともあります。
全てのクリスチャン宛に書かれたヨハネの手紙第一には「私がこれらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。」(ヨハネⅠ・2:1)と、手紙を書いた理由を述べています。
さて、ここまでくるともうお手上げだと言う方もおられるでしょう。私たちはこの「完全」や「聖さ」とは程遠い存在であることを知っています。それでも、聖書の御言葉(神からのメッセージ)を信じるならば、もう少し調べる必要は充分にあるのではないでしょうか。
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩むことができない」とヨハネはクリスチャンに対し清さを求め、パウロは「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。・・・・・・というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。」(ローマ6:11、14)とヒントを見せてくれています。
またこの世では戦い(信仰の)もあります。その戦いに備えて主が与えてくださる武具もまとえ、と言われています。そして、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ6:16)と勝利への自信も与えてくださいました。
私たちがどのような解釈をしてみようが聖書は、「ある面で神の持つ完全を持つことを命令されている」、「聖であることを要求されている」、「悪の攻撃に対し抵抗することができる」ということが書かれています。
私たちは相変わらずとても弱い存在です。まして「私には罪がない」なんていう人は「自分を欺いている」(ヨハネⅠ・1:8)のです。それでも「勝利の生活」が約束されているのであれば、求めてみたいと思いませんか。
神はこの小さき存在の私たちに、無理難題を押し付けたり、手が届かない目標をちらつかせて騙すようなことをされる方ではありません。神が約束されているのは、「私たちが勝利ある生活を得ることができるか」ということではなく、「私たちの主であるイエス・キリストが全てのことをしてくださり、そして、私たちに勝利を与えてくださる」ということなのです。
「しかし、神に感謝すべきです。私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(コリントⅠ・15:57)
少しずつですが、目の前が明るくなってきました。次回ではさらに掘り下げて検証していきます。