友よ、ヨルダン川を渡ろう!!(その4)


前回で勝利の生活のために、聖書が要求していることや私たちのあり方をみてきました。


それでも正直、釈然としない思いもあるでしょう。また、「聖書はそんなことを言っているのではない」との反論もあるかもしれません。


特に前回の「天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)の言葉を前にして、「不完全な人間に完全を求めるはずがない」との声が多数を占めるようです・・・。しかし、聖書が私たち一人ひとりに命じているとしたらどうでしょうか。


ある神学者はこのことについて「完全とは、私たちが永遠にわたって到達しようとする、現実とならない理想のことである」と言ったそうです。これはもっともな考えでしょう。しかし、人でもあるイエス様が命じておられるならば、「不可能なことではないはずだ」、と考えることもできます。






この本の著者は「天の父の完全」をこう説明しています。

私たちの天の父は、どのように「完全」なのでしょうか。もちろん、あらゆる面においてです。しかし、彼は神であり、私たちは人です。彼が私たちに、神のように「完全」であるように命じられるはずがありません。御父は絶対に罪がないという点で「完全」です。また、権威、栄光、力、知恵の面でも「完全」です。このような「完全」を朽つべき人が獲得することなどできません。
では私たちは、どんな面で「完全」であるべきでしょうか。「だから、あなたがたは完全でありなさい。」この‘だから’という言葉は、それまでに述べられてきたことを指しています。それは何でしょうか。ほかならぬ愛に満たされるようにとの戒めです。私たちの主は、全き愛を持つように命じておられます。実はこの考えは私に、圧倒するような力をもって臨みました。
勝利ある生活とは単に「全き愛の生活」なのです。


どうでしょうか・・・。「愛(全き)」だったんです。実は「愛」こそ私たちにとって最も大切な勝利の要素だったのです。このことは、今の世を見渡せば直ぐに理解できるでしょう。また、私たちの罪(小さな罪も)を思い出してみても判ることです。愛の対極、すなわち自己中心の罪がある限り、他人を思いやったり、気遣ったりすることはできません。私たちは救われた後もこの罪のために悩み苦しみます。相変わらずイライラや短気が爆発してしまいます。嫉妬心を持ったり、どうしても愛せない人がいる。また、思い煩いもあります。これは罪ではないでしょうか。ある人が「クリスチャンって、神に救われていてこころに宝を持っているのに、なぜ、喜びがないのですか?」と言ったそうです。この批判を謙虚に受ける必要があります。


あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34、35)


“キリスト(わたし)が愛したように”・・・これは全き愛であり、そしてこれを基準としています。律法は現在も生きています。しかし、「愛は律法を全うします」(ローマ13:10)なのです。


今、女性の間で「韓流(はんりゅう)」がブームのようです。韓流のドラマは日本ではみられなくなった純愛ものが好まれています。ここで表現される「愛」と神の「愛」とはまったく別です。(念のため)


「神の愛」を、不完全な私たちが、はたして持つことができるのでしょうか?


この問に対して「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)と聖書は言います。また、イエス様は天の父にこう祈りました。「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、また私が彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:26)


どうでしょうか、ここに希望を見出すことはできませんか・・・。私たちは完全になることはできません。でも、完全な神の愛が私たちの中にあるとしたら、これはすごいことです。


勝利ある生活には、神の全き愛は不可欠です。それには、エス様や天の御父が私たちの中に住んでくださるときにはじめて可能となるのです。


ヨハネはこう言ってます。「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるです。」(ヨハネⅠ・4:12)


私たちのうちにあるのは神の愛(完全な)なのです。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり神もその人のうちにおられます。」(ヨハネⅠ・4:16)と言い、だから「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました」(4:17)と教えています。


以上の根拠を持ってヨハネは「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」(4:17)と述べたのです。







ここまできてもまだ、「愛、ねー・・・。」というため息も聞こえてくるようです。^^;


それでは、聖書が言う愛とは・・・。


コリント人への手紙第一・13章の3節までに「・・・・愛がなければ・・・」と強調しています。特に13章2節には「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」と愛の重要性を述べた後に・・・、


「愛は寛容」「愛は親切」「愛は人を妬まず」「愛は自慢せず」「愛は高慢にならず」「愛は礼儀に反せず」「愛は自分の利益を求めず」「愛は怒らず」「愛は人のした悪を思わず」「愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶ」「愛はすべてを我慢し」「愛はすべてを信じ」「愛はすべてを期待し」「愛はすべてを耐え忍ぶ」「愛は決して絶えることがありません」そして、14節は「こういうわけで、いつまでも残るのものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と、私たちに示しています。


今、多くのキリスト者と言われる人たちが上記の「愛は・・・」の反対を生きていることにショックを覚えているかもしれません。それでも、主は私たちに期待しているのです。それは「イエス・キリストの愛の中に留まって生きていく」ことを。つまり、主は初めから、私たちアダムの罪の性質を継ぐ人間には期待していません。だから、イエス・キリストが第二のアダム(完全な愛の人)となって身代わりになってくださったのです。このお方に、私たちの代わりに生きていただくことによって、完全な者(神はイエスをご覧になるから)となることができるのです。


次回は、この点を考えていきます。