友よ、ヨルダン川を渡ろう!!(その5)


ここまできたら、勝利の生活を望まない方はいないでしょう。


その勝利を得るのは、私ではなく「内に住んでくださるキリスト」以外ないこともみてきました。そして、そのお方が私たちの心(霊)の内に住んでくださると約束をしてくださったのです。こころが躍るようです。


それは判ったけれど、いったいどうやって・・・?これは素直な疑問です。


ほとんどのクリスチャンは、罪から開放されるために努力をしてきたことでしょう。またある時には、それは戦いだったかもしれません。それでもほとんどの方が失敗してきました。今ではすっかりサタンに騙されて、できない理由を正当化して生きています。


ここで著者はその原因をこのように説明しています。

「誘惑と戦いなさい」という考え方は、私たちにとって魅力的で、非常にすぐれた賢明なものに思われます。それに神は、もし私たちの意思の力が最後まで持つとしたら、断固として残った後に、勝利を収めるために私たちを助けてくださいます。筆者はこのことをためし(ためしてみない人がいるでしょうか)、やっとの思いで、しばしば勝利を得ました。ところがまたもや、このように試みたのに、格闘後も何度も失敗を喫したのです。サタンは人より強いからです。
人受けのする道は、実は疑わしい道です。聖書のどこに私たちが誘惑と戦っていいと保証している箇所があるでしょう。罪や若いときの情欲、あるいは偶像礼拝といったものから“逃げる”ように勧められています。

そして次の聖句を用いて解説しています。パウロは「戦いを勇敢に戦い」(テモテⅠ・6:12)と勧告しましたが、それは「信仰の戦い」であって、苦しい闘争であるはずがありません。ヤコブは「悪魔に立ち向かいなさい」と言いましたが、私たちがそのままで(素手)立ち向かえとは言っていません。「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(ペテロⅠ・5:9)なのです。


信仰は(私自身)何もしません。ただ、神ご自信が、すべてのことをなさる道を開くだけです。そのために、「立つ」のです。(これは後で説明します)





「すべての罪からの開放」や「全き愛」というそびえたつ絶壁に道をふさがれて、なす術もなく途方にくれている時に、神は御子イエス・キリストを与えてくださいました。それは、私たちに代わってすべての命令(完全な天の父が望まれること)をしていただくためでした。なんという恵みでしょうか。


もう一度確認しておきますと、イエス様が私たちに代わって勝利してくださりました。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨になった神の御子の信仰(原典訳)によっているのです。」(ガラテヤ2:20)ということを、身をもって証明しました。そして、私たちの中におられるお方はもちろん、「彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者より力があるからです。」(ヨハネⅠ・4:4)そして、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方(イエス・キリスト)が彼を守ってくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」(ヨハネⅠ・5:18)どうでしょうか。これだけでも十分ではないでしょうか。


主のなされた御業はなんと素晴らしいのでしょうか。イエス・キリストは私たちの中に入り、こころのうちに住み、私たちの内でご自分のいのちによって生きることを望んでおられるのです。


パウロはこの偉大な特権を次のように要約しています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志をたてさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)


だから、勝利在る生活を送ることができるのです。これが聖書の言う“勝利”ではないでしょうか。


そして、その勝利を獲得するのは“わたしではなくキリスト”という言葉の成就には、キリストが働いてくださる環境をつくらなければなりません。つまり、キリストに私たちのすべてを所有してもらい、自由にコントロールしていただかない限りは、勝利はありません。


今までに内容は多少違っても、このようなメッセージを聞いてきたことでしょう。また、今までのことを試みた方も少なくはないでしょう。それでも、小さな罪からも開放され、勝利ある生活に届かないのはなぜでしょう。ある人は「肉に過ぎない人間は、キリストを受け入れた後もあるときは罪に勝利し、またあるときは罪に敗れ、その繰り返しで生きているものだ」と言っていました。その通りかもしれませんが、それでも、キリスト者に約束されている力を信じ、また過小評価するのではなく素直に受け取りたいものです。


この本の著者も同じような失敗をしてきたことを告白しています。それでも彼は、「自分を完全にキリストに明け渡し、単純な信仰をもって、イエス・キリストを内住の救い主として要求しました。それから立ち上がり、主イエス・キリストが彼のすべてを満たしておられることを事実として認めたのでした。つまり「神のみことばをただ信じた」のです。


私たちも、もう一度この著者のように素直になって勝利ある生活を求めてみませんか。


そのためには、1.神のみことばをただ信じる 2.自分を完全にキリストに明け渡す 3.イエス・キリストを内住の主として要求するのです。


ヨルダン川の対岸にある憧れのカナン(霊的な)の地がハッキリと見えてきました。イエス様と一緒にこの大河を渡りませんか・・・。いよいよ次回はこのタイトルの核心となります。