友よ、ヨルダン川を渡ろう!!(その6)

この平安の秘訣を保つ時には、私の魂にたとえ苦しみが加えられても、奥深く内にある平和のあることを感じ取ることができました。それからは、信仰により愛と謙虚を持って神の前に生活することができるようになり、神を悲しませることなどは一つとして考えられなくなり、何ごとをするにも無理な努力をすることもなくなりました。そして自らの力でできることをやるというよりも、神が喜ばれることを、神が私とともにして下さることを望むようになりました。今は私が何かの仕事を終えたとき、それを自分がなしたのだと思うことはいたしません。自分が努力することなく、魂の安息に入り、神の中に憩うことができるようになりました。 (ブラザー・ローレンス「敬虔な生涯」CLC暮らしの光社)


30年間、修道院の調理人として仕えたブラザー・ローレンスは、彼自身を全く神に明け渡し(修道院に献身したという意味ではありませんので)た結果、継続的な主の祝福を自分のものにしました。


そして彼はその秘訣をこう語っています。「神の臨在を正しく修練するには、何ものにも勝って、心が空っぽになっていなければならない。神が所有されるのものは、ほかならぬだからです。」


イザヤ書の57章15節では「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」と言っています。「心(霊?)が砕かれて、へりくだった」というのは、まさに、ブラザー・ローレンスのように「心が空っぽ」の状態を指すのではないでしょうか。“心が空っぽでないと、主の働く場所がない”からです。





さて、あなたは今、ヨルダン川の前まで来ました。ヨルダン川を渡った先の“勝利の生活”を聖書で調べて、そして眺めてきました。後は、ただ渡り、勝利の生活に入るだけです。


すべてを神に明け渡して!!


いざ、決心しようとすると、様々な思いが心の中を廻るかもしれません。「私たちには、キリストの心がある」(コリントⅠ・2:16)のに活用できていないのです。パウロヨルダン川を渡れていない人を「肉に属す人」(コリントⅠ・3:3)と言いました。しかし、私たちは御霊も受けているので「御霊に属す人」(コリントⅠ・2:12)でもあるのです。


私たちは二つの世界の住人です。“御霊の世界”と“肉(物質)の世界”です。完全な勝利の生活は、肉の世界にありながら御霊の世界の住人として過ごす、と言い換えても間違いではないと思います。


サタンはこの世の神」(コリントⅡ・4:4)であることを忘れてはいけません。肉の世界を様々な罪の幻想で私たちを惑わし、支配(ゆるされている)しています。サタンはあらゆる方法で、キリストの信仰を持った私たちをも縛っておこうとします。ヨルダン川を渡らせないために。なにより、サタンが恐れる「エス・キリストの命」を持たせないために。


だから、決心しようとする時に、心の中に恐れを植えつけたり、不安を生じさせたりします。すべてを手放すことを阻止してくるのです。少しでも手放すものを残しておくと、サタンはほくそ笑むことでしょう。なぜなら、彼はほんの少しでもコントロールできれば、それで十分だからです。


離したくないものとはなんでしょうか・・・。今の生活ですか? 仕事ですか? 今の地位ですか? 財産ですか? 趣味ですか? 何かの、楽しみですか? あるいは、家族や友人ですか・・・?


完全な明け渡しをした時にすべてを失い、将来も好ましくないと思われるほうを選択し続けていかなければならない、というような不安があるのでしょうか。


そのようなことは、聖書の何処にも書いてありません。それどころが聖書には「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。」「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。」(マタイ7:9、11)と言い、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)と主の所有(子供)とされた私たちに約束してくださいました。


この約束(主の栄光の富)より価値のあるものがあるでしょうか。


私たちを快適に地球の裏側までにも運んでくれる飛行機も、狭い道路を走り回っていたのでは意味がありません。それどころか、とても不便な乗り物になってしまいます。飛行機の機能を活用するには、まず飛行場に行き滑走路まで機体を運ばなければなりません。まず、飛べる状態にしなければならない、ということです。


私たちも同じです。ヨルダン川を渡るには「意思表示と決意」が必要なのです。


ヨルダン川を前にして主はヨシュアに「あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」(ヨシュア1:2)と言われました。“立って”とあえて言われたこと注目したいと思います。


道端に座っていた盲人のこじきは、イエスと弟子たちが来たことを知り、癒して欲しいために叫びました。イエスはその盲人を呼んでくるように弟子に命じ、弟子は座っていた盲人にまず立たせて、来るように伝えました。イエス様のところに来た盲人に対して「私に何をしてほしいのか」と、あえて尋ねられました。(マルコ10:46〜51)


ここでもまず盲人を“立たせ”ました。寝ていたり座っていたらダメなのです。また、イエス様は判っていても「治りたいか」と確認されました。


私たちもまず“立つ”ことです。立つということは自分の意思を表示することです。行動をおこすためには寝ていた(座っていた)らできません。そして、主に「ヨルダン川を渡りたいです」とハッキリと態度を示すのです。


ヨルダン川を渡った地で待っていたのは、抜き身の剣をもった武将でした。その武将は「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」(ヨシュア5:14)と言ったのです。これはとても意味深い言葉です。


今、来たのだ」と主の軍の将は言われました。そうなのです。ヨルダン川を渡るまで来ることができなかったのです。渡って、初めて来てくださり、そして、私たちの前に立って戦ってくださるのです。


罪からの勝利のために!!