頑固じいさんの改心!?(その2)
私は前回の「祈ろうかなー」に驚きと、感謝の気持ちを隠すことはできませんでした。
と言うのは・・・。
このじいさん、一筋縄ではいかないのです。
言葉にならない言葉(無言の)に耳を傾け、時おり発する言葉の一言一句からじいさんの思いを感じ取ろうと五感を研ぎ澄ましまし、会話をしていました。そして、こちらから核心にせまるポイントを質問したり、あることの判断をせまると、必ず「わかんねー」と逃げるのです。
じいさんに少しでも主を知ってもらおうとチャンスを狙っては、その場に合った聖句を語ると、首を右下30度に傾け、拒否反応を見せていました。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)のに。
「お年寄りだからしょうがないかなー」、「まあ、気長にいくさ」と気を取り戻すのですが・・・。
実はこのじいさん、切り替えトークの達人だったのです。
ある日、人生についての話になり、「人生はまいた種のとおりに花が咲く」けれど、主はそんな私たちを憐れんでいてくださり、イエス様を信じれば「絶望から希望へと変えてくださる」んだよ、と話すと・・・。
すかさず「天は自ら助くる者を助く」と、突っ込んでくる。どうも、「信じるだけ」でに対して、自分の努力(行い)が大切なんだ、と言いたいようです。でも聖書には「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2:16)と書いてあるんです。
おのれ「老獪な○○じじい」と言う言葉を飲み込みながらも、頭の回転の速さに感心させられました。
つい先日は、「神から離れてしまった人間が救われる道は、キリストしかないんだよ」と私が言うと、「信心に繁盛なし、って言うんだ」とすかさず返す。
ポイントがずれていると思いながらも、「クッ」と言葉に詰って次の言葉をさがしていると、うつむいていたじいさんの口角が、少しあがったように見えました。
どうもじいさん、昔はさんざんと神頼みしたようだ。というのも、部屋には神道の掛け軸や神棚、仏壇もほこりにまみれて勢揃い。
神なんか信じないという顔をしているが、どれもじいさんとは相性が悪かったのです。
「どうせ、俺なんかは・・・、」
「どうしたの?」
「ろくなことしてないから、・・・ひっそりと、死んでいくんだ・・・」
「ひっそりと、死んでいくんだ。なんで?」と聞くと、
「・・・・・・・」うつむいたまま、顔を上げません。
これも新たな戦術か?と、身構えていると、神妙な顔をして・・・、
「後継者がいれば・・・、こんな、心配しなくていいんだ・・・」と寂しそうに肩をおとす。
「主よ、どうかTさんの頑ななこころに触れてくださり、開いてください。そして、これから先の人生にあなたを受け入れ、うつむいて歩くのではなく、確かな希望をもって歩んでいくことができますようにTさんを顧みてください。イエス様のお名前を通して祈ります。アーメン」