なぜ、信仰で苦しむのですか?「だめクリ VS クル(苦る)シチャン」


業界(教界)用語に、“だめクリ”や“クルシチャン”という言葉があります。


“駄目なクリスチャン”と“苦しいクリスチャン”という意味だそうです。そうすると、対極は“敬虔なクリスチャン”ということなのでしょうか・・・。いやはや、なんとも・・・です。


“駄目”や“苦しい”という形容詞は、自虐的に使われているようですが、このような呼び方をするその心には、律法の影に支配されている姿を露にしていることを知らなければなりません。


なぜなら、“自らの行いを自ら評価している”からです。私たちが救われたのは、律法を守って行なったからですか・・・? 律法の行ないに応じて、神は私たちを評価するのですか・・・?


もう一度、ローマ書でパウロが言っている言葉を理解してください。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるからです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:20〜22)





猛暑が続いていた休日、家にいても茹だりそうだったので、図書館で本を読みながら涼をとろうと出かけました。(クーラーはあるのですが、本当のことを言うと、電気代がもったいないから。^^;)


4人掛けのテーブル席で本を読んでいると、隣には何かの資格を取るための受験勉強をしている青年がいました。ふと、何を勉強しているか気になり隣のテーブルを覗くと、暗記をするために赤い下敷きで隠したノートが置かれていました。


受験などで経験のある方も多いと思いますが、憶えたい単語などを緑のマーカーで塗りつぶして赤い下敷きを載せてそのノートを見ると、緑で塗りつぶした箇所が黒くなり、その部分だけが見えなくなります。そうやって、重要な単語や語句を暗記をしました。


さて、今あなたは神様です。(たまには神様の立場で考えてみるのも赦されることでしょう。皆さんも良く「少しは親の気持ちになって考えなさい!」と言うのでは・・・。)


もしあなたが神様なら、「何度言っても分からないし、変わることができない根性の腐った人間」に期待などするでしょうか(旧約聖書を読めばわかりますね)・・・?でも、愛しているから自分のもとに帰って来て欲しい・・・。まあ、期待していれば、初めから愛する御子イエス・キリストを十字架に掛ける必要はなかったことになります。聖書には「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)と書かれているとおりです。


アダムから受け継いだ罪は消えることがありません。なぜなら肉を持っているからです。どうしたら罪が消えるだろうか。いや、どうしたら罪を見なくても良い状態になるだろうかと考えた神様は、御子であるイエス・キリストをすべての人類(アダムの罪を持った)の代表として十字架につけられました。その聖い血を通してご覧になるので、私たちの変わらずに存在する罪は消されたのではなく、血に隠されて見えないだけなのです。


ノートに罪人と書いて、罪を緑のマーカーで塗りつぶしてから赤い(これがイエス・キリストの血です)下敷きを通して見てください。


罪が消えて、だけしか見えないはずです。今度は下敷きを外してノートに書かれた文字を見てください。相変わらずに存在する罪人が見えるでしょう。


そうなんです。何度でも言いますがクリスチャンとは、キリストの贖いによって“罪が赦された罪人”でしかないのです。


「どうせなら、キリストを信じたときに罪も無くしてほしかった。」と思いませんか?(こんなことを思うのは、私だけでしょうか・・・)でも、あえて肉の罪は取り除かなかったのではないでしょうか。


聖書は徹底して、“人間にはできないんだ”ということを教えているようです。それは変わらずに罪人だからです。罪人であると認識すればするほど、聖書の戒めを守ることはできません。でも、わたしにはできないことが“神様にはできる”のです。ここに、すべての救いがあるように思われます。


天の父なる神様は、あえて罪の身体を持つ人間をとおして御業を現されたのです。


それを勘違いしていると、“すべては神の戒めですから、修行だと思って耐えて生きていきます”になるのか、“この世と適当に妥協しながら生きていく”ことになるのかのどちらかを選択してしまうようです。こうして、“ダメクリ”や“クルシチャン”が誕生するようです。


すべての問題となる“罪”に対して聖書はどう言っているのでしょうか。


私たちの贖いとなり、神でありながら人となってへりくだって(本来は私たちがへりくだるのですが)くださったイエス・キリストは、新約聖書の初めにこう紹介されています。


この方こそ、ご自分の民をそのから救ってくださる方です。」(マタイ1:21)とあります。


罪から救ってくださる”のです。


初めに、律法では義と認められない。律法は罪を意識させる、という聖書の箇所(ローマ3:20〜22)を示しました。聖書は徹底的に人間の罪を教えます。“律法”すなわち、“私たちのどんな行いでも義と認められて救われることがない”と聖書は言っているのです。


だからイエスがキリスト(救い主)が、罪から救ってくださるために来られたのです。そして、私たちもキリストの命に包括されて罪の身体(古い人)は「キリストとともに葬られた。」(ローマ6:4)のです。そうであるならば、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(6:7)


その結果、「罪があなた方を支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」(ローマ6:14)と、律法から恵みに移されたことを説明しています。


“律法”とは、私たちが神の要求を行うことであり、“恵み”とは、神が私たちにしてくださることです。であるならば、“恵み(神の行い)の下”にある私たちを、罪が支配することなどありえません。


それは、イエスを信じ救われた私たち一人ひとりに対して言われたのです。さらにパウロは、自分がへりくだり弱いときにこそ、強いことを見出すのです。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、、私が弱いときこそ、私は強いからです。」(コリントⅡ・12:9〜10)


私たちは弱い存在であるにもかかわらず、まだ、自分の力でしようと考えます。そして、失敗をくり返してしまいます。(もし、いま罪を犯さないでいられるならば、それは主が働いてくださっているからです。)自分ではできないことを理解し、弱い存在であることを受け入れて主に委ねたときに、初めて主が働いてくださるのです。だから、強いということができます。


もう恵みは私たちに十分現されているのですから、主を信頼して、これからの人生の中で“自身で実体化”していくのが信仰ではないでしょうか。


※次回に続きます。