なぜ、信仰で苦しむのですか?「だめクリ VS クル(苦る)シチャン」(その3)


エス様が十字架に掛かってくださってからは、私たちを責めたてていた戒め(律法)は終わりました(正確には成就した)が、新たに戒めを残されました。


それは、「神を愛(畏れ敬え)して、人を愛しなさい」です。この御言葉(戒め)には、人がすこやかに生きていく上でとても大切なエッセンスが集約されています。


現実問題としての“愛”を考える前に、簡単に心理学的な見方をしなければなりません。もう一度、マタイの福音書22章36節〜40節をみてみましょう。「あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。


この御言葉を理解するためのポイントがあります。そして、聖書の御言葉には順番があることを知らなければなりません。


まず、イエス様は“主を愛せ”と言われました。それから、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せ”と続きます。“主を愛し、隣人を愛せ”ということですが、もう一つ大事な存在が隠れていることに気づかれたでしょうか・・・。


そうです。“あなた自身のように”愛せと言われました。ほとんどの神学者はこの箇所を重要視していないようです。「自分は愛せるが、他人を愛すことはむずかしい」という一般的な意味で捉えています。


ここでは、肉の不自由さや不条理に苦しまれた人間イエスの言葉として、心理学的な解釈も必要であると考えます。そのような前提で読むと“あなたの隣人を自分自身のように愛せ”は、まず“自分を愛し、そして、隣人を愛せ”という意味になります。つまり、自分を愛す(ナルシストという意味ではありません)ことが先で、その後に、隣人へと続くのです。


なぜなら、“自分を愛せない人は、他人も愛すことができない”からです。このことを理解したうえで意味を掘り下げてみると、「まず主を愛せ。そして、自分自身を愛して、あなたの隣人を愛せ。」となるのではないでしょうか。


分かりやすく人のこころを知るために、虐待などの例を挙げて説明しますので、不快に感じる方もいると思われますが予めご了承ください。





今、子供への虐待が社会問題となっています。親が自分の子供の愛し方や育て方が分からずに、ストレートな感情を処理できずに暴力で表し、傷をつけてしまいます。子供を愛することができないから起きることです。そのような親のほとんどが、同じように子供のときに虐待(心やからだへの)を受けた経験をしているようです。そして、この虐待は負の連鎖として、今度は自分の子供へと向かっていきます。


人は幼児期に親の正しい愛情を惜しみなく受けていれば、虐待という行為は生まれないでしょう。発育していく段階で親や家庭が安全で安心できることを確認し、自分の存在を受け入れられると正常な自我が育ち、この経験がその人の土台(家の基礎)となり、生きていく自信をつけるようです。


そして“愛されている自分を愛す”ようになります。


それでは、「愛された経験がない人は、自分をそして、他人を愛せない」ということなのでしょうか。人間だけの係わりでは、とてもむずかしいことです。しかし、聖書の中に光を見出すことができます。


私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネⅠ・4:10)とあります。さらに「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(4:19)と、愛の順番が書かれています。


神がまず私たちを愛してくださった”ことを確認してください。神を知らない私たちに、まず神の愛を現してくださいました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(4:9)


信仰によって“こんな私でも愛してくださった”ことを知り、そして神の愛を受け取ったときに、自分の存在意義を認め“自分を愛す”ことができるのではないでしょうか。


その愛を根拠に、他人への愛へと移っていくのです。


別の言い方をするならば、まず自分自身が満たされることです。自身の器に神のいのち(愛)が注がれて、やがてあふれ出し、はじめて他人の器に注ぐことができるのです。そうでないと、いつまでたっても「戒めですから・・・行いが大切ですから・・・」、などという勘違いがなくならないのです。


見るからに貧相でやせこけていて、今にも倒れそうな人から「このパンをあなたのために差し上げます」と言われて喜んでもらうことができるでしょうか・・・。これが、神の望まれることなのでしょうか・・・。


人間だけの関係では得ることができなかった愛を、神が関与してくださったことにより、豊に受けることができるのです。この愛を信仰を通して十分に理解し享受してください。自分には神の愛が注がれていることを知ったときに、はじめて、戒めでも義務でもなく他人を愛すことができるのです。






私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ・2:10)


ヨハネ福音書でイエス様は、私たちとイエス様との関係(状態)をぶどうの木と枝で説明されました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)


枝は幹につながっていてこそ葉を茂らせ、実を結ぶことができます。枝は実を結ぶために何かをするでしょうか。枝の役目は、幹にただつながっているだけです。


私たちもイエス様にしっかりとつながっていて、イエス様から流れてくるいのちを、ただ流すだけです。ここには、私たちの行いなどありません。


神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)私たちを通して事を行なってくださるのは神であることを覚えておきましょう。


「こんな罪深い私にも神様は愛を示してくださった。罪のために暗い死へと続く道を肩を落として歩いているしかできなかった私を、御子イエス様が十字架で贖って救ってくださった。今は、イエス様と永遠の希望へと続く道を歩いているんだ」と実感でき心が満たされたときに、周りの人も愛おしくなり、自然と愛すようになるのではないでしょうか。


虐待など負の連鎖ではなく、神様が愛してくださった神様を愛し、そんな自分を愛し隣人を愛すという愛の連鎖を神様は望んでおられるのです。