頑固じいさん VS 眼科医軍団(その2)

前回で、また違う眼科の名前が出てきてから7〜8回のやり取りがありました。


「野上に行った人の例は、たまたま治る病気だったんだよ。」「2軒の眼科に行っても同じような結果だったんだから、これ以上悪くならないように考えよう。」「気の毒だけど、この状態でどうやって生活していくかが大切だよ。」と説得するのですが・・・、


「野上に行ったら1回で良くなった・・・。」「野上は目医者で有名なんだ・・・。」しまいにはいつもの作戦で「野上まで行こうと思うんだけど・・・、一人じゃ、おっかなくて・・・。」


というわけで、3軒目の野上の眼科に行くことになったのでした。(もう泣きそう。^^;)





じいさんが指定してきたのは落合眼科といい、昔から有名だそうです。建物は改装したらしくきれいで、内装は病院にありがちなどこか冷たい感じはなく、和風で木のぬくもりが伝わってきてリラックスできる空間です。訪れる患者も多く、忙しそうでした。


じいさんが検査をしている間、カーテンで仕切った診察室の前の畳ベンチに腰掛けて待っていました。診察室の中からは先生が患者とやり取りしている声が聞こえてきます。先生は忙しいのにもかかわらず、一人ひとりに丁寧にゆっくりと説明してました。


やがてじいさんの番になり、診察が終わった頃に私も呼ばれたので中に入ると、じいさんが肩を落として床の一点を見つめているのです。先生の診断は、「正直これ以上の治療方法は無い」とのことでした。近眼と老眼が進み、目にも多少の傷があるけれど、このままの状態でいるしかない、ということなのです。この結果は分かっていました。


じいさんが顔を上げたと思ったら、「野上は、目医者でもつって、言うんだ・・・。東京の大学病院に行って治らなかった人が、ここに来て・・・。」と、先生の前で突然言い出したので私も少し慌てましたが「○○さん、私も、治る症状なら治療しますけれど、もう治す方法がないんです。」と先生はやさしく言い聞かせていました。


私にも説明をしてくれた後にもう一度、「せっかく来てくれたのですけれど、○○さんの目はこのままですが、この状態で生活していくことを考えましょう」と、前に進む道を示してくれました。今回は診察だけで薬も必要ない、ということです。やたらと検査に注射、薬も出し放題の医者が多い中で、本当の人の痛みに向き合える医者に会えた気がしました。


誰でも、病から癒されることを望まない人はいないでしょう。けれども、病から癒されても、それよりも大切なものを失っていることもあるのです。聖書はそれを“永遠のいのち”と言います。


神はこの永遠のいのちを、私たち滅びゆく人間にも与えてくださったのです。そのいのちを現実のものにするには、イエス様の贖いの業を“信じて受け取る”ことです。


じいさんも不自由ではありますが現状を受け入れて、これから先の人生を“病の先にある確かな希望”に向かって歩んで行って欲しいと願います。


また、イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」(ヨハネ9:1〜3)