聖書がもし、つくり話だったら
もし、聖書に書かれている神が神話の類の話だったら・・・。
こんなにも分かりづらい神の姿は描かないだろう。
新約聖書の初めには、いきなり系図が書かれている。まったく興味を持たせるような編集内容ではない。また、聖書が言う神は神秘的な臭いもなく超自然的な、私たち人間を魅了しセンセーショナルな現れかたもされなかった。
いやそれどころか、中東の片田舎で馬小屋でお生まれになった、という。しかも、処女が身ごもったなどと、よけいに人間の常識を無視してまで受け入れにくくするだろうか。
すべての制限の外におられる神であるのに、あえてイエスという窮屈な人の姿をとられ、人間の苦悩や悲しみ、痛みも経験された。高いところにおられる方が徹底的に謙り、すべての人類の罪をかぶり苦しみながら、犠牲になられた。
もっとも屈辱的な十字架に掛かられて。天地を創られた方が・・・。
なぜなら、聖書ははじめから理解してもらおうとか、信じてほしいというような理由で書かれているのではないからだ。
人が理解しようがしまいが、それは真実であるから、当時の選ばれた人間がありのままに見聞きしたことを書いたまでである。
聖書のはじめは、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と言う言葉ではじまる。そして、最後の黙示録では、「見よ、わたしはすぐに来る」と、この宇宙を創られた方が再びこの世に来られること約束された。
また、「この方(イエス)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使途4:12)と、明言された。
神が再び来られる時に人は、はっきりとそのお方を見る(信じるのではなく知る)ことになります。イエスは私たちの罪の贖いのために十字架で死ぬために来られました。今度は救いを完成させるために再び来られのです。
どうぞこの聖書から、“明日への明確な希望”と“真のいのち”を得ることができますように。