愛をください!

「三つ子の魂百まで」という諺を、じいさんをみているとつくずく考えさせられます。


聖書では「愛」を教えています。それは神が示された愛ですが、人には「隣人を愛せ」と戒めています。その愛が人の原動力の源になければならないからです。


そしてその「隣人」とはお隣の人でもなく、まして遠くの他人でもありません。他ならない一番近くにいる家族のことです。すべてはここから始まるからです。


じいさんの幼少の頃は物資も乏しく、人が一生懸命になって生きていた時代でしたが、それでも両親に他人(子)を思いやる心(自己中心の対極)があれば、愛情を惜しみなく与えることができるでしょう。





子どもは幼児期にぐずって自分の存在を確認します。その時に、親の愛情で受け止められた子は、この世が、この家庭が安全であることを知り、健全な自我を育て自信をつけていくようです。反対にこの時期に虐待などの拒絶された経験をすると、自分の存在意義を見つけることができずにまっすぐに進めば良い道を歩んでいくことができなくなり、違った道を創り出して進むしかなくなるのです。その結果、精神(脳の回路?)に不具合が生じ、人格を歪めてしまうのではないでしょうか。


これはちょうど、最初の人類が「善悪の知識の木」を食べてから自分の基準で魂を必要以上に肥大化させ、自分でやりくりしながらこの世を生きているのと同じです。これは不自然な生き方です。


こうして育った子が親になり、子供に同じことをする(負の連鎖)ようになります。憎悪は広がり、この世界に様々な罪に姿を変えて蔓延しているのが、今の世の中といっても過言ではないと思います。


じいさんも残念ながら子どもを正しく愛情を持って育てることができなかったようです。一人で暮らすじいさんの身体も少しずつ機能を奪われ、生活していくことに不自由をおぼえています。ヘルパーさんに週二日来てもらい、介助を受けていますが、頑固じいさん相手ですから苦労しているようです。


先日はヘルパーさんに対するクレームの電話がありました。(うちはお客様相談センターか・・・?)じいさんの世間知らずは相当のものです。しまいには、「やることもないのに、金だけはぼったくっていきやがる」と不快感をぶつけてきました。


自我だけをむき出しにした人は、すべて自分にとって都合悪いことは赦せないのです。もし少しでも他人を思いやる愛の心があったならば、あのような心の作用は働かないはずです。(じいさん宅には毎回違うヘルパーさんがくるようです。やれやれ、です。^^;)


愛を受けないで育った人は、他人を愛することは難しいでしょう。けれども、人には愛された経験がなくても、誰でも神によって愛されていることも知らなければなりません。


人間にはまず神との関係をもう一度築く必要があります。神の庇護の下にはいることです。それは罪(自己中心)のために神から離れて、本来受け継ぐべき神の国(死後の世界)に行くことができませんでしたが、イエス・キリストが十字架に掛かって死んでくださったことにより、神との関係が修復されました。このことを「信じる」のです。ただ信じ受け取った人には、神の子としての特権が与えられます。


これが神が示された愛です。この愛をまた拒否するのではなく、いただくことができれば幸いです。そして今度は、イエスと共に愛の中を生きていくようになるのです。