本当の神に出会った人々(その3)

扉は開かれた「私の回心記」 笈川光春   

  ふり返れば、私が念珠を手にしたのは昭和2年4月12日、まだ5歳の時でした。それは私を誰よりも可愛がってくれた祖父の通夜の晩でした。紋付きの羽織、袴を着せられ、念珠を手にし、冷たい階段の羽目板に顔を押し当て、ひとり泣いていた夜を今でも昨日のように思い出すことができます。
 「お爺ちゃんは、どうして死んだのだろう」
幼い小さな魂に、悲しみとともに刻みつけられた人間の生命の不思議さに、母は答えてはくれませんでした。間もなく父の死、鎌倉では句友の死、出征した友の死、空襲のための親戚や幼友達の死。
 このようにして私は家の宗教であった仏門に入り、墨染めの法衣を着け、有縁無縁の多くの人々の死を枕経(まくらぎょう)をあげつつ見送りました。やがて最も親しくしていた法兄の鉄道自殺。右に左に、前に後に、私の魂は人間の死という現実に少しのひまもなく揺さぶり続けられました。
 人間とは何か、どこから来てどこへいくのだろう。深遠なる謎、そしてこの謎を解く鍵はないものであろうか。
 「人間が人間を知りたいと思う心は、人間として誰しもが持つホームシックだ。だから人間のホームシックは、人間がその本来の故郷へ帰るまでは癒されない。」
 「青い花」の詩人のノバーリスはこう言ってます。どんな人でも、生まれ故郷を慕う心を持たない人はいません。しかし生まれ故郷以上に、魂の故郷を憧れる気持ちこそ人間が持つ潜在的なホームシックではないでしょうか。
 その魂の故郷こそが神のみ胸、即ち罪にかすんで見えなかった心に、神の存在を意識する心となりました。パラダイスを迷い出たアダムとエバの惨めな姿は、決して遠い国の遠い昔の物語ではなく、アダムはこの私でした。
 パラダイスをさまよい出た私は、荒寂たる砂漠の中で途方にくれ、神から遠く隔てられたその距離を埋めるものとして、私は仏の道を求めました。
 仏教では、人間の一刹那の心の動きを三千もの世界に区別して説き、天地法界ことごとくを掌に乗せて見せる釈迦の教え、そこに展開される大曼荼羅(だいまんだら)の世界は、荘厳を極めて美しいものでした。しかしその表現はいかに美しく精密であっても、ファーストの言い草ではありませんが、「惜しいことに、見ものたるに過ぎぬ」でした。
 いかに味わい深い考えでも、ごく一部の人々のもてあそぶ物になっているのでは無に等しい。また、いかにわかりやすく大衆化されたからと言っても、今日の多くの仏教教団の現状のように、葬式や年忌法要(ねんきほうよう)だけを仕事とする単なる葬式宗教になり下がり、金儲けや、病気癒しばかりを説く偶像崇拝のご利益信仰に憂き身をやつしていたのでは、魂の救済のできないことは当然です。
もし親鸞道元が、このキリストの福音に接していたなら、おそらく驚き喜んで御前にひざまずき、一万一九七〇巻の大蔵経も、菩薩の偶像も放り出して念珠を切り捨てるでしょう。
 私は今、聖書により「私は罪人です」ということができます。しかし仏教が奥深い減罪観を展開できても、この罪人である私を贖ってくれるという約束や保証はどこにもありません。仏教にはこの贖罪(しょくざい)の血に彩られた十字架が無いということは、すべてが無に等しい。しかし旧新約聖書66巻は、私の贖い主イエス・キリストの確実な救いについての記事ですっかり埋め尽くされているのです
 仏教僧侶であった私が、なぜキリストに来たのか?
 今、改めて考えてみてもわかりません。それは私自身の力ではなく、神ご自身の聖霊によるお導きであるとしか考えられないのです。それは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)とある聖書の言葉の通りです。
 私は洗礼を受けました。人類の始祖アダムのとき以来、魂の故郷を見失って苦しくもだえ、よろめき続けてきた私は、聖霊に導かれ、今ここに真実の故郷の道を一歩一歩、希望に満ちて歩み続けています。

※文中の赤の強調は管理人によります。