本当の神に出会った人々(その4)

「仏教よりキリストへ」 大堀善諦 

 わが国は仏教国で、仏教は先祖以来の伝統的宗教として、日本に生まれ育った私たちにとってはなじみ深いものです。
 私は東北のある小都市に生まれ、先祖より浄土教系の門信徒でありました。世間一般の方々が各自の家の宗教をよく知らないのと同様に、私も二〇歳の頃までは、仏教とは何か、わが家の宗派とは何かを、全然知りませんでした。ところが敗戦後、私の心に宗教を求める欲求が起こり、東洋の精神の母体といわれる仏教について研究したいと思い、ついに浄土門の寺院に入門しました。そこで仏教や浄土教学を修め、住職の資格も与えられ、住職が予定されていましたが、なお一層の研究をしたいとの望みから京都で勉強することになりました。
 
 この間、浄土門こそが仏道の実践上、他の宗派に比類のない優れた法門であることを確信しました。仏教の目的は仏になることで、仏の悟りを開くことによって、この世から解脱(げだつ)することは各宗派とも異論はありません。悟りを開く具体的な方法が各宗派で異なっています。これらは仏法の理屈から言えば理論上は可能ですが、それが私たちにとって実際に可能かどうかということが問題です。
 昔から多くの方が熱心に修行をし研究もし、ある少数の高僧たちは悟りを理解し、体得されたことでしょう。しかし一般の凡俗(ぼんぞく)にとっては、なかなか難しく、達することもできず、狭き門です。私自身もこの問題についての理性と本能との戦いは、惨めなものでした。仏教では自我によって起こるいろいろな欲求をすべて煩悩(ぼんのう)といい、理性では成仏は絶対の真理だと思うのですが、いくら打ち消しても殆ど限りなく煩悩は沸き起こってくるのです。その中で私にとって最大の欲求は、永遠の生命への欲求でした。聖書には次のように書いてあります。「神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。」(伝道者3:11)と。
 仏教的な立場から言えば、個人が永遠の生命を欲することは許されず、すべての人が仏となった時、永遠の生命が可能となるのです。私もそれに沿って努力をしてみましたが、血みどろの戦いをくり返すだけでした。

 特に僧職にあった私は、死者の枕元で経をあげ、葬式法事にたずさわるたび、人生の無常を人一倍味わわされ、できれば死ぬことのない自分の生命というものを強く欲求するようになりました。
 しかし、この態度は仏教的立場からすれば、まさに煩悩そのものなのです。ああ人間の終わりはどうして死なのでしょうか。どうして死ぬことのない生命が、人間には与えられなかったのでしょうか。このことについて、解決を仏教に果たし得なかった私は、前より興味を持っていた聖書に、どのように書いてあるかを探したのです。
 ついに聖書の中から、肉体の復活という奇蹟を見出したのです。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死でも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女(マルタ)はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」(ヨハネ福音書11:25〜44)
 主イエスとマルタとの会話を読み、イエスは、死んだラザロに対し、「ラザロよ。出てきなさい。」と大声で叫び、ラザロを墓から生き返らせたのです。
 ああ、肉体の復活、なんと言う深い、深い真理でありましょう。さらに、「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、、私たちは変られるのです。」(第一コリント15:52)ともありました。
 神はすべての人に永遠の生命を与えようとして、ひとり子イエス・キリストを十字架上につけ、この私の身代わりに罪を負わせて裁かれたのでした。私が神に願う前に、神は人間の救いをイエス・キリストの十字架と復活によって開かれたのです。
 なんと素晴らしい救い、良きおとずれでしょう。肉体の復活!永遠の生命の賦与!それは私だけでなく、ありとあらゆる信じる者に与えられるのです。なんと広き神の愛でしょう。こうして私は、多年の懐かしい仏教僧侶の生活をかなぐり捨て、意を決してキリスト者に転向したのでした。次の聖書の言葉も私の心を変えました。
 「わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれでも私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ福音書10:28)
 ここに浅学非才(せんがくひさい)をも省みず、道友会のお勧めにより証しをさせていただきました。このささやかな証しが多くの方々にキリストを知っていただく一文でありますよう、祈りつつ筆を置きます。

※「仏教からクリスチャンへ」川口一彦 編著:イーグレースより転載しました。


なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」(コリントⅠ・8:5,6)