旅はいつか終わるが・・・。

これまでに一度だけ、友人に金を貸したことがある。もともと個人間での金の貸し借りはしないと決めているから、最初から返してもらうことは期待していなかった。


こちらから返済を求めたことはない。向こうから「返さない」と言われたわけでもない。そんな中途半端な貸金だ。


3ヶ月かけて車でオーストラリア大陸を縦断するという旅の費用で、わずかな金額ではなかった。


もちろん私は慈善家ではないから、金を出したのには理由がある。人生が変わるかどうか、知りたかったのだ。


それ以前の何年か、彼は家庭でも、仕事でも、不本意な状況に置かれていた。その苦しみがどれほどのものであったのかは知らないが、彼はある日、すべてを投げ捨てて旅に出ることを決意し、その金を工面するために私のところにやってきた。


彼はこの旅で、人生がやり直せると信じていた。


旅の目的は、誰もいない真夜中の砂漠で、赤い月とともに踊り明かすというものだった。こんな荒唐無稽な話になぜ魅かれたのか、自分でも不思議だった。


誰もが心のどこかで、人生をリセットしたいと考えている。だが残念なことに、人生にはコンピュータゲームのようなリセットボタンはない。


私たちが暮らす高度化された資本主義社会では、人生を変えたいと望む人々のために、さまざまなコンビニエントな方法が用意されている。新興宗教、自己開発セミナー、携帯電話の出会い系サイト、薬物などはどれも、人生リセットするためのお手軽な道具の一種だ。少し前には、「自殺すれば人生がリセットできる」とする本が、若者たちの間で圧倒的な支持を得た。


私たちは、これらの方法がすべて幻想であることを知っている。だがその一方で、どこかで人生を変える出来事を願ってもいる。


昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が永遠に続くとしたら、生きることの意味はどこにあるのだろう?


私にも、漂泊への抗いがたい憧憬がある。非日常の世界に身を投じたいという衝動がある。


砂漠の月光の中で踊りたかったのは、彼ではなく、私自身だった。


オーストラリアへの長い旅から帰って、彼の生活はさらに荒んだものになった。家庭は崩壊し、仕事の大半を失い、やがて連絡すらなくなった。


人生は、日々の積み重ねの延長線上にある。だから、簡単には変わらない。そんなことは、彼も知っていたはずだ。


最近、彼がアパートを引き払って、予定のない長い旅に出たことを聞いた。今頃はインドを放浪しているはずだという。


際限のない自由を手に入れた彼は、人生を変える体験をまだ探し続けている。


旅はいつかは終わり、戻るべき家はない。


橘玲雨の降る日曜は幸福について考えよう』(幻冬舎)2004年9月刊
 文庫版『知的幸福の技術』(幻冬舎)2009年10月刊


  橘玲さんのこの記事は、とても意味深い内容です。


「誰もが心のどこかで、人生をリセットしたいと考えている」と言い、「旅はいつかは終わり、戻るべき家はない。」と締めくくっています。


人には与えられた分があるようです。それは性格であったり、生まれた育った環境であったり、個性もそれぞれです。つまり、みな違うのです。


それは人の努力で変えられるものではありません。その人に与えられた運命だからです。


何かと比べるのではなく、そこにしっかりと立つことが大切です。


運命には抗うのではなく、「流れに棹さす」のです。逃げるのではなく、そこしか居場所はないのです。


けれども、今が、その場所が、永遠に続くのでしょうか。そんなことはありません。やがて、目に見える世界は朽ちてなくなります。


その時に帰るべき家はあるのでしょうか。私たちの居場所はあるのでしょうか・・・。


聖書は、イエスを信じて受け入れた者を「この世では寄留者だ。」そして、その「国籍は天国だ。」と言います。


人には今どのような人生を送っていても、そしてリセットしなくても、やがて行くべきところがあります。あなたは、その地に希望がもてるでしょうか・・・。


今いる場所で、置かれている環境で、イエス・キリストを迎え入れ、旅の終わりに住むことになる「終の棲家(天国)」に入ることができれば幸いです。