カンニング事件とこの国の闇
「カンニングをしただけで・・・。こんなに騒がれて、しかも逮捕までされるとは・・・。」
・・・きっと、本人はこう思ったかもしれません。
京大の入試試験で、19歳の予備校生がカンニングをしたために大学側から告訴をされて、「偽計業務妨害罪」で逮捕されたというニュースを聴きました。
つまり、「業務を妨害された」ということなのでしょう。
もちろん入学試験という制度があるのですからそれに正しく従うことは当然ですが、それでもこれから大人に育っていこうとする青年の芽を摘み取ってしまうような罰が果たして必要なのでしょうか。
また、異常としか言いようのない程度の低い報道に、不快感すら覚えます。
何を視聴者に伝えたいのか?
これがトップニュースなのですか?
今、世界はそして日本は、どのような状態なのか知っているのでしょうか?
倫理とは・・・、正義とは・・・、と改めて考えさせられました。
ところで聖書では、姦淫の罪で捕えられた女性をイエスの元に引きずり出して、「律法に従って石打の刑にしろ」という場面があります。これは、イエスが救い主であることを信じなかった律法学者やパリサイ人が試そうとしてのことです。
イエスが言われたことは、私たち一人ひとりのこころに問いかけているようです。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
とうぜん刑罰に値する罪を犯したのだから「石打だろう」と、息巻いていましたがイエスの答えに「年長者からその場を離れて行き、そして誰もいなくなった」とあります。
「年長者」から離れていったとは意味深いですね。
そして一人残された女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」とイエスは言われました。
これは「罪を定めるためではなく、罪から救うためにこられたイエス」を表しています。
だからこの少年を無罪放免にしなさい、というつもりはありません。
まるでメディアを通してヒステリックに集団リンチのごとくに、「犯罪者に仕立て上げる必要があるのか」と言うことを問うているのです。
彼の進む道も、示し導いてあげるのが教育者の姿ではないのでしょうか。
異常が異常でなくなりつつある今の世の中から、目覚める時なのです。