人知を超えた「神の愛」


先週の日曜日(24日)は復活祭(イースター)でした。イエス・キリストが十字架に架かり死なれて、三日の後に甦られ(復活)たことを感謝して祝います。


クリスマスは便宜上12月25日としてキリストのご生誕を祝いますが、イースターは「春分の最初の満月から数えて最初の日曜日」とします。今年は4月24日でした。


聖書には「クリスマスやイースターを祝いなさい」とも、まして「その日が何月何日だ」ともありません。それは重要なことではないからです。



それではなぜ、祝うのでしょうか・・・。





「祝いたい」からです。(これで終わったら怒られそうですね)^^:


エスを信じる者にとって「十字架の御業(死と復活)」がすべてだからです。


しかし残念なことに、わたしたち人間には常識や科学という破ることのできない「限られたフレーム」を通してでしか理解することができないので、それ以外のできごとに対して脳が拒否反応を示すのです。


「復活しただってー・・・。まさかー・・・?」と。


この自然界には法則があります。この法則を適用するならば、人が生きかえることも、処女マリアから子どもが生まれることも考えられません。また、イエスがなされた数々の奇蹟も、ただのファンタジーでしょう。



そもそも、人類はアメーバーから偶然の進化によって誕生した、とする「進化論」の洗脳から解放されなければなりません。最近では「自然を超越した何かがデザインした」と考える科学者も少なくありません。これが「創造論」です。


この寸分の狂いもない宇宙も、生物も神が創られたことは聖書の創世記に書いてあります。何ごとも偶然にできることはありません。


わたしたち人類が偶然にできたとしたら、この人生に何の意味があるのでしょうか・・・。


時間に空間、大気、そしてその世界の法則も神がつくられました。


そうであるならば、それらに影響されない主権者である神にとっては不可能なことはありません。


ただ、わたしたちには理解できないだけです。井の中の蛙は、大海を知ることも空を飛ぶ動物がいることさえも知ることはできません。蛙がいくら知恵を絞っても、井戸の外の世界で繰り広げられているできごとを想像すらできないのです。


聖書は「御霊によらなければ神を知ることはできない」と言います。いくら世の科学書哲学書を紐解いても、神にたどり着くことはないでしょう。


それは「人の知恵」では神を知ることができないからです。<次に続きます>