ドレスコードはキリスト!?
「主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲のために心を用いてはいけません。」
(ローマ13:14)
ドレスコード(Dress Code)とは服装規定のことです。
わたしは30年位前にハワイに住んでいました。今はすっかり昔の面影はありませんが、
ホノルルのダウンタウンはビジネス街です。ちょっと危ない(?)中華街もあり、安全だと
言われながらも夜は危険な場所でしたが、昼はビジネス街ですからビジネスマンで賑わ
います。
ハワイの正装は男性はアロハシャツ、女性はムームーです。ビジネスマンも色柄を少し
抑えたアロハを着ています。お洒落なビジネスマンはカッターシャツを着ていました。
ほとんどのレストランはアロハシャツとスラックス(?)でOKですが、ジャケット着用とい
うドレスコードをもうけている所もあります。
さて、信仰の道を行くキリスト者にもドレスコードがもうけられています。
それはキリスト・イエスの着用です。
・・・と、言ってもイエスのきぐるみではありませんが・・・。^^;
わたしたちは、もう曲がった罪の世の中から救われているのです。イエスによってもう
救われているのです。まずこのことをしっかりと認識してください。
聖書には、「すべて過去形」で私たちの今の状態が書かれています。「キリストとともに
十字架につけられた(死んだ)」(ローマ6:6)とあります。ガラテヤ書では「キリストととも
に十字架に架けられ、私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きている」(2:20)
と信じられないようなことが書いてあります。そして「死んでいるので、罪からは開放されて
いる。」(ローマ6:7)と言うのです。
「救われるでしょう・・・、きっと・・・。開放されることになるかも・・・」と希望をもたせるため
に聖書は書かれたのではありません。ハッキリと「もう得ている」と過去形で主は言われ
るのです。
主が私たちに与えてくださった恵みを信じて受け取り、この世の中で、生活の中で実体化
させるのが信仰ではないでしょうか。
そうであるなら、わたしたちはたとえ実感がわかなくても、この世ではまずキリストを着る
必要があります。カッコから入るのです。キリストのタキシードを着ているうちに、中身も
似合う者となってきます。タキシードを着ていることを意識して、肉の欲を遠ざけるのです。
何も「敬虔を装え」とは言っていません。いかがわしい敬虔なクリスチャンほどうさん臭い
存在はありません。(見せ掛けだけの、と言う意味です)
キリスト者(クリスチャン)は戒めだから良い行いをするのでしょうか?
イエスにならう者となるなるのが、キリスト者でしょうか・・・?
獄中のパウロは「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ1:10)
とアジアの教会に宛てて書いています。その後に、「その良い行いをもあらかじめ備えて
くださった」と続けています。
それは、「行なわなければならない」のではなく「自然と行なうことができる」ということに
なるのではないでしょうか。
私たちがいただいたのは「決して渇くことのない水」であり、そしてその水は、「泉となって
永遠のいのちへの水がわき出る」(ヨハネ4:14)のです。
このことをもう一度覚えてください。沁みる程度の水ではなく、そこにたまる程度の水でも
ありません。わき出るのです。わき続けて、あふれ出すのです。
そして、あふれ出した泉の水が周りの人をも潤すのです。
わたしたちなんの価値もなかった罪人が、ただ主の恵みによって御子イエスの贖いを信じ
たことにより、この世の行く先の永遠の滅びより救い出され、このからだは滅びるとも
「信じることでいただいた聖霊によって、神と共に生きるようになった」という真実は、
喜び以外の何ものでもないほずです。
本当にこの意味を理解し自分のものとした時、「自然と良い行いをする」ようになります。
やがて、そのタキシードも脱ぐ時がやってきます。必要ないからです。
「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられる」(コリントⅡ・
3:18)のです。アーメン!!