いのちの言葉(その2)

父は戦後の混乱期のときにキリストの十字架と出会い、信仰の道を歩みだしました。
信仰の故にときには苦しみながらも多くの恵みを主からいただき、また支えられなが
ら走り抜けて行きました。


そんな父も晩年は病との闘いで、一度は癒された癌で再び身体を侵され、ホスピス病棟
から待ち焦がれた憧れの天の父のもとへ旅発ったのです。


家族が交代で泊り込み付き添っていましたが、わたしの番のときに父は突然、「エリシャ
さん、お会いしたかったです。」と天を仰いで言ったのです。このときの父は、もう自由に
身体を動かすこともしゃべることもできない状態でした。


肉体の機能が最低限に抑えられたとき、人は霊の機能が自由に働くことができるのでしょう。
そのとき父は、きっと地上につながれたわずかな鎖の先で天の御国を味わっていたのだと
信じています。


父は肉体の死を前に、「ゆるぎない希望」をつかんでいたのです。


父は最期にはっきりと信仰生涯の証しとして、こう言い残しました。


勝利」、「平安」、「永遠のいのち


実はこのことを知ったのは、ずーっと後になってからのことです。


信仰とは・・・。聖書の根拠は・・・。真理・・・?と、あれこれ思いを巡らせているときでした。
姉からの電話で知ったのです。


主は、こんなできの悪いわたしにも、父を通して、姉を通して真理を啓示してくださいました。


わたしはこの父の最後の言葉で、信仰の階段を、また一つ昇ったのです。


エスの「完了した」という十字架の上からの言葉が身体を光となってつき抜けるような感覚
に、わたしの細胞の一つひとつが踊りだしたようにも感じられました。


死に行く人の言葉に偽りはありません。いや、天の御国を垣間見た人の言葉は人生すべてを
懸けて得た信仰の極意を証明するものです。


それが、神の御子が生涯を通してわたしたちすべての滅びに向かっていた罪人への遺産なの
です。


すなわち「罪からの解放(勝利)」、「永遠のいのち(神の子の権利)」であり「御霊による平安
なのです。


これが、イエスを信じる者に与えられるのです。そして、信仰によって自分のものとするのです。


エスはもう「完了」してくださったのですから。



「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちたちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

(コリントⅠ・15:55〜57)


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、
わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、
死からいのちに移っているのです。」
ヨハネ5:24)


「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちのこころに与えてくださいました。」
(コリントⅡ・1:22)