信仰と行い


「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、
行いのない信仰は、死んでいるのです。」
ヤコブ2:26)



救われるための条件はただ一つ、御子イエス・キリストが救い主であることを信じる
だけです。


即ち、キリストは「私たちの罪の贖いのために死なれ、葬られたこと。そして3日目に甦ら
れたこと
」(コリントⅠ・15:3,4)を信じて受け取るのです。


これ以外ありません。ここに私たちの何かを付け加えることがあってはいけません。


ところが、キリストを信じ救われたと思っていたら、行いが要求されるような聖句と
出会い、自分の弱い信仰や消えない罪の思いに悩まされる方が多いようです。


それでは、この行いとは何でしょうか。律法を守ることですか? 何か良い行いをしなけ
ればならないのでしょうか・・・?


ある人が見たことがないキノコを持ってきました。あなたは、その人がキノコ採りの名人で
あることを知っていてその目利きを信じています。でもそのキノコは見るからに食用とは
思えないほどカラフルで、あなたには毒キノコに思えてなりません。


その人は、「これは食べられるキノコだから」と言って差し出しますが、あなたはそのキノコ
を食べますか?


やはり怖くて食べられないと考えた方は、「その人を信じていない」ことになります。その人
を信じていれば、この場合「食べるという行い」が伴うはずです。つまり、信じることと行いは
セットで働くのです。


ヤコブの手紙2章にはアブラハムやラハブの信仰が書かれています。遊女ラハブは神を信じ、
そして二人の斥候の言うことを信じてかくまい、ただ無事に逃がしただけでした。


行いとは、「信頼する」と言いかえることができます。


主を信じて、そして信頼するのです。主の約束を信頼することができたら、必然的にその人に
求められる(それぞれ違います)行いは、「誰に強制されるのでもなく備えられたものとして
その人の内で働く
」(エペソ2:10)ものです。