外で待っておられるキリスト


「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を
あけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。」
(黙示4:20)



寒い冬の夜のことです。その日は雪が降っていて、吐く息も凍り、身体に吹き付ける
風が体温を奪って歩くために足を動かすのがやっとです。


訪問先の家は街から離れた山の中腹にあります。寒く暗い夜道をやっとの思いで
登り、目的地に着きました。


灯りがこぼれる玄関先に立ち、呼び鈴を押して暖かな部屋で暖をとる光景が目に
浮かび、やっと寒さから開放されることに疲れも忘れます。


・・・・応答がありません。もう一度呼び鈴を押し、大きな声で呼びかけますが、誰も
出てきてはくれません。灯りがついているのに不在かと思い窓越しに中を覗くと、
家族でおいしそうな食事をしながら談笑しているのが目に入りました。


やがてそこの主人が気づきドアを開けますが、中に入れてくれません。


彼は、訪ねてきてくれた人を知っていますが、「今は家族で食事中だから・・・」とか
「もう少し家族水入らずで・・・」、また「いつ入ってもらうか、相談してから」と相手
のことは考えずに理由を並びたてては、家の中に入れることを拒むのです。



実は、この寒い夜に訪ねてきてくださっているのは、キリストなのです。キリスト
はどんな思いでこの寒空の中、じっと待っておられるのでしょうか。


いつまでも、いつまでも、「開けてください」と小さな声で呼びかけているのです。


キリストはご自分でドアを開けて中に入ってくることはしません。


ドアを開けるのは私たち自身なのです。


私たちは主を受け入れ従うことに、さまざまな言い訳をもって拒否しています。
まだ、手放したくない何かがあるのでしょうか。まだ、味わっていたいこの世の
欲から離れたくないのでしょうか。


エスは神の栄誉も力も捨て去り、人知れず田舎町でナザレ人と軽蔑されることも
よしとされ、天の父に忠実に従ったではありませんか。私たちの罪の贖いという、
ただ一つの討ち死にのために謙ってこの世に下ってきてくださいました。


このお方を、この寒空の中で待たせているのです。イエスは罪の世という暗く寒い
外で、凍える手で何度も何度も戸を叩いておられるのです。


今すぐに、重い扉を開け放ち、このお方を迎え入れて私たちのすべてを明け渡し、
従ってゆきたいものです。


約束してくださっているすべての祝福を信じて。


「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、
わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

箴言1:33)