悲しみの日、とは・・・。


そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、
悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを
見るのです。」(
マタイ24:30)



多くの人にとっての神は、「願ごとを叶えてもらう」だけの存在なのでしょうか。


私たちの教会に、礼拝が終わって午後の交わりの時にたまに遊びに来る青年がいます。
アルバイトの帰りでお腹をすかせているようで、遅い昼食をしながら世間話をし時間
を過ごして帰ります。


もちろん神のことや救いの話もしますが、その話になると聴く耳を持ちません。最終的
には「自分の欲求が目に見える形で叶えられたら」信じることができる、という考えを示し
ます。そして「見えないものは信じられない」という人の思考に落ち着いてしまうのです。


聖書にもあるように人の知恵では主を知ることはできません。御霊の働きによって真理
を見る目が開かれるように祈るばかりです。


ところで先の聖書に書かれているように、イエス・キリストの再臨の時には世界中の人々
が悲しみながら天から来られるのを見るとあります。


「悲しみながら」とは、とても意味深い言葉です。


もしキリストの福音も知らず、キリストが再びこられることも知らないとしたら、悲しみ
とはなりません。人はこのような超常現象を目の当たりにした時、恐れを覚えることは
あるでしょうが、悲しむことはないはずです。


それではなぜ悲しむのでしょう。それは、キリストが救いの完成(裁き)のために来られる
ことを知って(聞いて)いたからだ、と思います。


その時、世界の人々には「真の神を信じるという選択はなく、知ることになる」のです。




「・・・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ20:27、29)