「科学者の原罪・・・滅びに至る道」その3

  
  科学の社会的な存在感が増大すると人間は、科学が人類を救うという錯覚に
陥る。しかし科学が社会を完全に支配した時、本当の救いがあるだろうか?科学
の研究をすればするほど、その恐ろしさにおののかざるを得ない。科学を志せば
志すほど罪の重荷は重くなるばかりである。


  「まず神の義を求めなさい。」と聖書にあるが、本当の義を悟り、それによる人類
の幸福を追求する言が科学の大前提になっていなければならないと思う。科学者
だけでなく、人類の一人ひとりが良心のささやきに耳をかたむけて、科学の進歩
を人類の真の幸福のために捧げようとしないならば、人類は科学の進歩によって
滅びるに違いない。


  私は最後に3つの問題を提起したい。


  第一に、科学技術を絶対視してはいけない。すべての問題は何時の日か科学
技術によって解決するだろうという考えは正しくない。科学者、技術者の驕りは
最も大きい罪であり、科学を絶対視する人類は必ず滅びに至る。


  第二に、科学を進めるには正邪を判断する知識、情報を正確に得る必要があ
る。でっちあげの安全神話、権力者の欺瞞を見抜く賢さが必要である。


  私の父、政池仁の言、「戦時中、国民は大本営発表にだまされていたというのは
言い訳だ。賢くあれば満州事件以来の日本軍の欺瞞は見抜けたはずだ。聖書は蛇
のように賢く、鳩のように素直になりなさい。と教えている。」


  第三に、これは最も重要なことであるが、「残れるもの」として行動する言が要求
される。正しい事であるならば他人と異なる行動をとる勇気、良心のささやきを実行
に移す勇気が必要である。戦時中、鈴木鈴木弼美と共に捕えられた渡部弥一郎の長男
良三さんの歌集「小さな抵抗」に記された勇気を見習いたい。渡部良三が「中国人の捕
慮を殺せ」という上官の命令に従わなかった勇気は、キリスト者として極めて重要で
ある。この勇気を持つ「残れるものが」がいなければ化学によって人類は間違いなく滅
びる。この勇気によってのみ破滅の道から人類を救い出す言が出来る。


  イザヤ書で言う「残れるもの」が、本当に人類を正義の道にとりもどすことができ
るか、キリスト者の存在価値(真価)が問われている。それが出来なければキリスト者
は何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである。

「角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。
しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救おう。


しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を鳴らさず、そのため民が警告を
受けないとき、剣が来て、彼らの中の一人を打ち取れば、その者は自分の咎のために
打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。


人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの
口から言葉を聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」
(エゼキエル33:5〜7)


「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・・神である主の御告げ・・・
だから、悔い改めて、生きよ。」
(エゼキエル18:32)