信仰の評論家!?

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい
そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます
。」
(ピリピ4:9)




私たちがスポーツ番組をみるとき、専門家の解説は、より観戦を楽しむため
に欠かせません。また、ニュースの解説も真相を知るために必要となります。


色々な分野にも評論家がいて、その知識の豊富さには感心させられます。


しかし、スポーツの評論家が評論通りに行なえるかは別問題です。なぜなら
知識と行動(身体能力)は別だからです。


ところで、これがキリスト者の信仰にも当てはまるので注意が必要です。


聖書の通読を何十回しようが、信仰生活を何年続けていようが、知的好奇心を
満たすだけでは意味がありません。もちろん、聖書を読み真理を追究(みこころ
を知る)することは大切です。


パウロの書簡には、「教理」があって「実践」があります。知識を得たら次には
自分のものとするために「やってみなさい」ということです。


書店に行くと様々な「ノウハウ本」が並んでいます。少し本格的な料理を作ろう
と思ったら、まず料理本を買い求める方が多いでしょう。そして読んでみて、材料
や作り方も分かりおいしそうで食べてみたいが、作るのがめんどくさいから料理
せずにいたら、その本はむだになります。


料理に対する知識は増しますが、おいしい料理を口にすることはできません。自宅
の本棚にあふれるほどの料理本を詰め込んでも、決しておいしい料理を堪能するこ
とはできないのです。


信仰生活も同じです。イエスを信じ信仰を持って救われたが、平安がない、確信を
もてない、罪に勝利することができない・・・。これは料理と同じで、知識は得ている
のに、それを生かしていないことからくるのです。


このことをヤコブは「行いのない信仰は死んでいる」(ヤコブ2:26)と言いました。


信仰は見えないものを確信し、実体化する」(ヘブル11:1)ことです。ですので、
信仰があるといいながら行いがなければ、信じていない(死んでいる)ことになります。


いくら信仰があっても、「こうすれば平安があるよ」、「この通りにすれば全ての祝福
があなたのものですよ」と教えている聖書(神)の約束を信じ、その通りにお行なわな
ければ、それはいつまでも「絵に描いた餅」でしかありません。


それではどうすれば良いのでしょうか。


このひと言に集約されています。「御霊によって歩む」(ガラテヤ書5:16)のです。


つまり主に従って歩むということです。日々、肉の思い(感情・知識・意思)を御霊の思い
(御霊の実、ガラテヤ5:22)に譲り、御霊に導かれて歩んでゆくことです。


肉の思いと御霊の思いは、相反するもの」(ガラテヤ5:17)ですので、初めのうちは
葛藤があります。そのために不断の努力が必要になります。それでも意識して続け
ていれば、やがて自然と身についてくるのです。


そうすれば、「主は私たちを子供として、さらにキリストとの共同相続人」(ローマ8:14
〜17)として扱ってくださり、栄光の富を与えてくださいます。


きょうもこの約束を信じて、主に従い(行い)、主が備えてくださっている栄光の道
を歩んでゆきたいものです。




しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、
安らかである。
」(箴言1:33)