キリストの律法(その2)

人には必ず得手不得手があります。育った環境も違えば価値観も同じでは
ありません。足の早い人に遅い人、好きなものが違えば、嫌いなものだって
違うのです。


力ある人が力のない人に力を貸す。知恵のある人が知恵を出す。たまたま
経済的に余裕がある人がない人の分も出し、時間がある人が時間を出せば
良いだけです。本来人はそのように造られていたはずです。


「自分がという基準(自我)」から一歩はなれて他人の弱さ(重荷)を見て、そこ
を非難するのでも避けるのでもなく、助けることが「重荷を負う」ことです。


そして、これが「互いに愛し合う」ことにつながると信じています。


聖書は私たちに「愛(アガペー)」を要求しています。神からはなれ自分を基準
としてしか世の中を見れなくなった人間は、この愛を失ってしまいました。


それゆえ神はもう一度、人々の心に愛を回復させたいのです。そして、キリスト
と一つにされた教会を建て上げるのでしょう。


教会建設に必要なことこそ「重荷を負い合う」(コロサイ1:24)ことなのでは
ないでしょうか。