主の臨在がある教会
「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、
胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。」
(黙示1:12、13)
ここで書かれている「金の燭台とは教会」(黙示1:20)のことです。このアジア
にあった教会には主イエスが確かにおられたようです。
しかし教会からは、「初めにあった愛」(エペソ1:15)がなくなってしまったので
「燭台を取りはずす」(黙示2:5)と言われました。
金の燭台は主イエスがおられるしるしです。教会に主の臨在があったのです。
しかし「主イエスの臨在を取り去る」と言われたのです。
愛のない教会には、主の臨在はありません。どれだけ熱心に礼拝(形式的な)
をしようとも、そこには主がおられないのです。
主イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われました。見せ掛けだけの愛は気持
ちが悪いです。誰にもできることとできないことがあります。たまたま自分にで
きることで補い合えばよいだけです。それが愛し合うことなのですから。
世の風に吹かれることなくしっかりとキリストの土台の上に建ち、暗い世の中
にあって灯台として光を放っていることができるように祈りたいものです。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリントⅠ・13:13)
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い
なさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが
私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34、35)
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)