聖なる自己主張「イエスが愛した弟子」

ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについてくるのを見た。
この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて『主よ。あなたを裏切る者は
誰ですか。』と言った者である
。」(新改訳ヨハネ21:20)



ダニエルは神に夢を解き明かす特別な能力が与えられ、また知恵に富んでいました。
捕囚の期間は王に認められ、要職に抜擢されながらも常に神に忠実に従い、御使いに
神に愛されている人ダニエルよ。」(ダニエル10:11)と名誉ある称号で呼ばれました。


一方、ヨハネ福音書を書いたヨハネゼベダイの子)は「イエスが愛された弟子」と自
ら名乗っています。弟子の間でも誰が一番か、という探りあいはあったのでしょう。


最後の晩餐の様子にも、ヨハネはイエスとの親密さを意図的に表そうとしているように
思われます。新改訳の上記箇所の「イエスの右側にいて・・・」は新共同訳では「イエス
の胸もとに寄りかかったまま・・・」(原典に近い訳)とあります。


当時の食卓は丸いテーブルを囲み、それほど大きなテーブルではなかったので隣の人
との間隔が狭かったのではないでしょうか。それで、イエスの右隣にいたヨハネは内緒
話をするように身体を密着させて尋ねたことが想像されます。


エスとの親密さの表現として使ったのかもしれません。


ところで、「最後の晩餐(イエスの隣が女性に見える)」というとダビンチの絵が当たり前
のようにひきあいに出されますが、テレビの食事シーンではないので構図としてはあり
えません。全員が正面を向いていることはないのです。


このダビンチの描く風景を基にして、ヨハネの聖句を根拠に加え、イエスの愛した弟子
マグダラのマリアだとする「とんでも本」があります。さらに子まで儲けていたとまで
言い出す始末。これに対していちいち反論する価値もありませんね。


それに対してひと言。「さがれ、サタン!!


主イエスの来られた目的を変えようとしたり、神の神性をおとしめようとしたりすることは
「サタンや悪霊」の仕業です。


エスは「この地上には枕する所もない。」(マタイ8:20)と言いました。神であるのに
天の栄光を捨て、私たちと同じ罪の身体をまとい、私たちには負うことのできない罰の
身代わりとなるために来られました。罪を犯さなかっただけでなく、人としての楽しみや
喜びは一切求めず(もちろん結婚して家庭を持つという意識のかけらもない)、ただ天
の父なる神の御心のみを求めていました。


主イエスの結婚(霊的)はこの時代が過ぎ去った時に成就するのです。「私たちは喜び
楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだ
から
。」(黙示19:7)もちろん花嫁(霊的)は教会である私たちです。


これほどまでに神に愛されている私たち(キリスト者)ですので、ヨハネのように自分を
認識し、たとえこの世にあってはうまく立ち回ることができなくとも、神に愛されているこ
とを自己主張し、神が備えていてくださる道を歩んでゆきたいものです。